れる。誰も分ってくれやしない。」と栖方はまた呟いたが、歩調は一層|活溌《かっぱつ》に戞戞《かつかつ》と響いた。並んだ梶は栖方の歩調に染ってリズミカルになりながら、割れているのは群衆だけではないと思った。日本で最も優秀な実験室の中核が割れているのだ。
 栖方が待たせてあると云った自動車は、渋谷の広場にはいなかった。そこで二人は都電で六本木まで行くことにしたが、栖方は、自動車の番号を梶に告げ、街中で見かけたときはその番号を呼び停《と》めていつでも乗ってくれと云ったりした。電車の中でも栖方は、二十一歳の自分が三十過ぎの下僚を呼びつけにする苦痛を語ってから、こうも云った。
「僕がいま一番尊敬しているのは、僕の使っている三十五の伊豆《いず》という下級職工ですよ。これを叱《しか》るのは、僕には一番|辛《つら》いことですが、影では、どうか何を云っても赦《ゆる》して貰いたい、工場の中だから、君を呼び捨てにしないと他のものが、云うことを聞いてはくれない、国のためだと思って、当分は赦してほしいと頼んであるんです。これは豪《えら》い男ですよ。人格も立派です。そこへいくと、僕なんか、伊豆を呼び捨てに出来たもん
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