は事実、あることは夢だったのだと思った。そして、梶は自分も少しは彼に伝染して、発狂のきざしがあったのかもしれないと疑われた。梶は玉手箱の蓋《ふた》を取った浦島のように、呆《ほう》ッと立つ白煙を見る思いで暫《しばら》く空を見あげていた。技師も死に、栖方も死んだいま見る空に彼ら二人と別れた横須賀の最後の日が映じて来る。技師の家で一泊した翌朝、梶は栖方と技師と高田と四人で丘を降りていったとき、海面に碇泊《ていはく》していた潜水艦に直撃を与える練習機を見降ろしながら、技師が、
「僕のは幾ら作っても作っても、落される方だが、栖方のは落とす方だからな、僕らは敵《かな》いませんよ。」
 悄然《しょうぜん》として呟く紺背広《こんせびろ》の技師の一歩前で、これはまた溌剌《はつらつ》とした栖方の坂路を降りていく鰐足《わにあし》が、ゆるんだ小田原提灯《おだわらぢょうちん》の巻ゲートル姿で泛《うか》んで来る。それから三笠艦を見物して、横須賀の駅で別れるとき、
「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから、お元気で。」
 はっきりした眼付きで、栖方はそう云いながら、梶に強く敬礼した。どういう意味か、梶は別れて歩くうち、ふと栖方のある覚悟が背に沁《し》み伝わりさみしさを感じて来たが、――
 疎開先から東京へ戻って来て梶は急に病気になった。ときどき彼を見舞いに来る高田と会ったとき、梶は栖方のことを云い出してみたりしたが、高田は死児の齢《よわい》を算《かぞ》えるつまらなさで、ただ曖昧《あいまい》な笑いをもらすのみだった。
「けれども、君、あの栖方の微笑だけは、美しかったよ。あれにあうと、誰でも僕らはやられるよ。あれだけは――」
 微笑というものは人の心を殺す光線だという意味も、梶は含めて云ってみたのだった。それにしても、何よりも美しかった栖方《せいほう》のあの初春のような微笑を思い出すと、見上げている空から落ちて来るものを待つ心が自ら定って来るのが、梶《かじ》には不思議なことだった。それはいまの世の人たれもが待ち望む一つの明※[#「析/日」、第3水準1−85−31]判断《めいせきはんだん》に似た希望であった。それにも拘《かかわ》らず、冷笑するがごとく世界はますます二つに分れて押しあう排中律のさ中にあって漂いゆくばかりである。梶は、廻転《かいてん》している扇風機の羽根を指差しぱッと明るく笑った栖方が、今もまだ人人に云いつづけているように思われる。
「ほら、羽根から視線を脱《はず》した瞬間、廻《まわ》っていることが分るでしょう。僕もいま飛び出したばかりですよ。ほら。」



底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
   1981(昭和56)年〜
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2003年6月12日作成
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