いほう》の姿に似せて空想した。
「それにはまた、物凄い青年が出てきたものだなア。」と梶は云って感嘆した。
「それも可愛いところのある人ですよ。発明は夜中にするらしくて、大きな音を立てるものだから、どこの下宿屋からも抛《ほう》り出されましてね。今度の下宿には娘がいるから、今度だけは良さそうだ、なんて云ってました。学位論文も通ったらしいです。」
「じゃ、二十一歳の博士か。そんな若い博士は初めてでしょう。」
「そんなことも云ってました。通った論文も、アインシュタインの相対性原理の間違いを指摘したものだと云ってましたがね。」
 異才の弟子の能力に高田も謙遜《けんそん》した表情で、誇張を避けようと努めている苦心を梶は感じ、先《ま》ずそこに信用が置かれた気持良い一日となって来た。
「ときどきはそんな話もなくては困るね。もう悪いことばかりだからなア。たった一日でも良いから、頭の晴れた日が欲しいものだ。」
 梶の幻影は疑いなくそのような気持から忍び込み、拡《ひろが》り始めたようだった。とにかく、祖国を敗亡から救うかもしれない一人の巨人が、いま、梶の身辺にうろうろし始めたということは、彼の生涯の大事件だと思えば思えた。それも、今の高田の話そのものだけを事実としてみれば、希望と幻影は同じものだった。
「しかし、そんな青年が今ごろ僕の色紙を欲しがるなんて、おかしいね。そんなものじゃないだろう。」
 と梶は云った。そして、そう思いもした。
「けれども、何といっても、まだ小供《こども》ですよ。あなたの色紙を貰ってくれというのは、何んでも数学をやる友人の中に、あなたの家の標札を盗んで持ってるものがいるので、よし、おれは色紙を貰って見せると、ついそう云ってしまったらしいのです。」
 梶は十年も前、自宅の標札をかけてもかけても脱《はず》されたころの日のことを思い出した。長くて標札は三日と保《も》たなかった。その日のうちに取られたのも二三あった。郵便配達からは小言の食いづめにあった。それからは固く釘《くぎ》で打ちつけたが、それでも門標はすぐ剥《は》がされた。この小事件は当時梶一家の神経を悩ましていた。それだけ、今ごろ標札のかわりに色紙を欲しがる青年の戯れに実感がこもり、梶には、他人事《ひとごと》ではない直接的な繋《つな》がりを身に感じた。当時の悩みの種が意外なところへ落ちていて、いつの間にかそこで葉を伸ばしていたのである。彼は一日も早く栖方に会ってみたくなった。おそるべき青年たちの一塊をさし覗《のぞ》いて、彼らの悩み、――それもみな数学者のさなぎが羽根を伸ばすに必要な、何か食い散らす葉の一枚となっていた自分の標札を思うと、さなぎの顔の悩みを見たかった。そして、梶自身の愁いの色をそれと比べて見ることは、失われた門標の、彼を映し返してみせてくれる偶然の意義でもあった。

 ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが、これはまことに恐るべき石畳の神秘な能力だと思うようになって来たのも最近のことである。何かそこには電磁作用が行われるものらしい石の鳴り方は、その日は、一種異様な響きを梶に伝えた。ひどく格調のある正確なひびきであった。それは二人づれの音響であったが、四つの足音の響き具合はぴたりと合い、乱れた不安や懐疑の重さ、孤独な低迷のさまなどいつも聞きつける足音とは違っている。全身に溢《あふ》れた力が漲《みなぎ》りつつ、頂点で廻転《かいてん》している透明なひびきであった。
 梶は立った。が、またすぐ坐《すわ》り直し、玄関の戸を開け加減の音を聞いていた。この戸の音と足音と一致していないときは、梶は自分から出て行かない習慣があったからである。間もなく戸が開けられた。
「御免下さい。」
 初めから声まで今日の客は、すべて一貫したリズムがあった。梶が出て行ってみると、そこに高田が立っていて、そしてその後に帝大の学帽を冠《かぶ》った青年が、これも高田と似た微笑を二つ重ねて立っていた。
「どうぞ。」
 とうとう門標が戻って来た。どこを今までうろつき廻《まわ》って来たものやら、と、梶は応接室である懐しい明るさに満たされた気持で、青年と対《むか》いあった。高田は梶に栖方の名を云って初対面の紹介をした。
 学帽を脱いだ栖方はまだ少年の面影をもっていた。街街の一隅を馳《か》け廻っている、いくら悪戯《いたずら》をしても叱《しか》れない墨を顔につけた腕白な少年がいるものだが、栖方はそんな少年の姿をしている。郊外電車の改札口で、乗客をほったらかし、鋏《はさみ》をかちかち鳴らしながら同僚を追っ馳け
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