にはいくまいと思われる。しかし、すでに、それだけでも栖方の発想には天才の資格があった。二十一歳の青年で、零の置きどころに意識をさし入れたということは、あらゆる既成の観念に疑問を抱いた証拠であった。おそらく、彼を認めるものはいなかろうと梶《かじ》は思った。
「通ることがありますか。あなたの主張は。」と梶は訊《たず》ねた。
「なかなか通りませんね。それでも、船のことはとうとう勝って通りました。学者はみんな僕をやっつけるんだけれども、おれは、証明してみせて云うんですから、仕方がないでしょう。これからの船は速度が迅くなりますよ。」
どうでも良いことばかり雲集している世の中で、これだけはと思う一点を、射《さ》し動かして進行している鋭い頭脳の前で、大人たちの営営とした間抜けた無駄骨折りが、山のように梶には見えた。
「いっぺん工場を見に来てください。御案内しますから。面白いですよ。俳句の先生が来たんだからといえば、許可してくれます。」栖方は、梶が武器に関する質問をしないのが不服らしく、梶の黙っている表情に注意して云った。
「いや、それだけは見たくないなア。」と梶は答えを渋った。
栖方は一層不満らしく黙っていた。前後を通じて栖方が梶に不満な表情を示したのは、このときだけだった。
「そんなところを見せてもらっても、僕には何の益にもならんからね。見たって分らないんだもの。」
これは少し残酷だと梶は思いもした。しかし、梶には、物の根柢《こんてい》を動かしつづけている栖方の世界に対する、云いがたい苦痛を感じたからである。この梶の一瞬の感情には、喜怒哀楽のすべてが籠《こも》っていたようだった。便便として為すところなき梶自身の無力さに対する嫌悪や、栖方の世界に刃向う敵意や、殺人機の製造を目撃する淋しさや、勝利への予想に興奮する疲労や、――いや、見ないに越したことはない、と梶は思った。そして、栖方の云うままには動けぬ自分の嫉妬《しっと》が淋しかった。何となく、梶は栖方の努力のすべてを否定している自分の態度が淋しかった。
「君、排中律をどう思いますかね、僕の仕事で、いまこれが一番問題なんだが。」
梶は、問うまいと思っていたことも、ついこんなに、話題を外《そ》らせたくなって彼を見た。すると、栖方は「あッ、」と小声の叫びをあげて、前方の棚の上に廻転《かいてん》している扇風機を指差した。
「零点五だッ。」
閃《ひら》めくような栖方の答えは、勿論《もちろん》、このとき梶には分らなかった。しかし、梶は、訊《き》き返すことはしなかった。その瞬間の栖方の動作は、たしかに何かに驚きを感じたらしかったが、そっとそのまま梶は栖方をそこに沈めて置きたかった。
「あの扇風機の中心は零でしょう。中の羽根は廻《まわ》っていて見えませんが、ちょっと眼を脱《はず》して見た瞬間だけ、ちらりと見えますね。あの零から、見えるところまでの距離の率ですよ。」
間髪を入れぬ栖方の説明は、梶の質問の壺《つぼ》には落ち込んでは来なかったが、いきなり、廻転している眼前の扇風機をひっ掴《つか》んで、投げつけたようなこの栖方の早業には、梶も身を翻す術《すべ》がなかった。
「その手で君は発明をするんだな。」
「おれのう、街を歩いていると、石に躓《つまず》いてぶっ倒れたんです。そしたら、横を通っていた電車の下っ腹から、火の噴いてるのが見えたんですよ。それから、家へ帰って、ラジオを点《つ》けようと思って、スイッチをひねったところが、ぼッと鳴って、そのまま何の音も聞えないんです。それで、電車の火と、ラジオのぼッといっただけの音とを結びつけてみて、考え出したのですよ。それが僕の光線です。」
この発想も非凡だった。しかし、梶はそこで、急いで栖方の口を絞《し》めさせたかった。それ以上の発言は栖方の生命にかかわることである。青年は危険の限界を知らぬものだ。栖方も梶の知らぬところで、その限界を踏みぬいている様子があったが、注意するには早や遅すぎる疑いも梶には起った。
「倒れたのが発想か。倒れなかったら、何にもないわけだな。」
これもすべてが零からだと梶は思って云った。彼は栖方が気の毒で堪《たま》らなかった。
その日から梶は栖方の光線が気にかかった。それにしても、彼の云ったことが事実だとすれば、栖方の生命は風前の灯火《ともしび》だと梶は思った。いったい、どこか一つとして危険でないところがあるだろうか。梶はそんなに反対の安全率の面から探してみた。絶えず隙間《すきま》を狙《ねら》う兇器の群れや、嫉視《しっし》中傷《ちゅうしょう》の起す焔《ほのお》は何を謀《たくら》むか知れたものでもない。もし戦争が敗《ま》けたとすれば、その日のうちに銃殺されることも必定である。もし勝ったとしても、用がすめば、そんな危険な人物を人は生
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