廻している切符きり、と云った青年であった。
「お話をきくと毎日が大変らしいようですね。」
 先ずそんなことから梶は云った。栖方は黙ったまま笑った。ぱッと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だった。赤児が初めて笑い出す靨《えくぼ》のような、消えやすい笑いだ。この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶には頷《うなず》けないことだったが、笑顔に顕《あらわ》れてかき消える瞬間の美しさは、その他の疑いなどどうでも良くなる、真似手《まねて》のない無邪気な笑顔だった。梶は学問上の彼の苦しみや発明の辛苦の工程など、栖方から訊き出す気持はなくなった。また、そんなことは訊《たず》ねても梶には分りそうにも思えなかった。
「お郷里《くに》はどちらです。」
「A県です。」
 ぱっと笑う。
「僕の家内もそちらには近い方ですよ。」
「どちらです。」と栖方は訊ねた。
 T市だと梶が答えると、それではY温泉の松屋を知っているかとまた栖方は訊ねた。知っているばかりではない。その宿屋は梶たち一家が行く度によく泊った宿であった。それを云うと、栖方は、
「あれは小父の家です。」
 と云って、またぱッと笑った。茶を煎《い》れて来た梶《かじ》の妻は、栖方《せいほう》の小父の松屋の話が出てからは忽《たちま》ち二人は特別に親しくなった。その地方の細かい双方《そうほう》の話題が暫《しばら》く高田と梶とを捨てて賑《にぎ》やかになっていくうちに、とうとう栖方は自分のことを、田舎言葉まる出しで、「おれのう。」と梶の妻に云い出したりした。
「もうすぐ空襲が始るそうですが、恐《こわ》いですわね。」と梶の妻が云うと、「一機も入れない」と栖方は云ってまたぱッと笑った。このような談笑の話と、先日高田が来たときの話とを綜合《そうごう》してみた彼の経歴は、二十一歳の青年にしては複雑であった。中学は首席で柔道は初段、数学の検定を四年のときにとった彼は、すぐまた一高の理科に入学した。二年のとき数学上の意見の違いで教師と争い退校させられてから、徴用でラバァウルの方へやられた。そして、ふたたび帰って帝大に入学したが、その入学には彼の才能を惜しんだある有力者の力が働いていたようだった。この間、栖方の家庭上にはこの若者を悩ましている一つの悲劇があった。それは、母の実家が代代の勤皇家であるところへ、父が左翼で獄に入ったため、籍もろとも実家の方が栖
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