った。定雄は高野山も知っていたが、あの地を選んだ弘法の眼力は千年の末を見つめていたように思われた。もし伝教に自身の能力に頼るよりも、自然に頼る精神の方が勝《すぐ》れていたなら、少くともここより比良《ひら》を越して、越前の境に根本中堂を置くべきであったと考えた。もしそうするなら、京からは琵琶湖《びわこ》の舟楫《しゅうしゅう》と陸路の便とを兼ね備えた上に、背後の敵の三井寺《みいでら》も眼中に入れる要はないのであった――。
こういうような夢想に耽《ふけ》って歩いている定雄の頭の上では、また一層鶯の鳴き声が旺《さか》んになって来た。しかし、定雄はそれにはあまり気附かなかった。彼は自身に頼る伝教の小乗的な行動が、いま現に、まだどこまで続くか全く分らぬ雪の中を、駕籠を捨てて徒歩で歩き抜こうとしている妻の千枝子と同様だと思った。それなら今の自分は弘法の方であろうか。こう思うと、定雄はまた弘法の大乗的な大きさについて考えた。出来得る限り自然の力を利用して、京都の政府と耐久力の一点で戦ったのであった。つまり、いまの定雄について考えるなら、駕籠を利用して行く先の不明な雪路を渡ろうというのである。弘法は政府と高野山との間に無理が出来ると行方《ゆくえ》をくらまし、問題が解決するとまた出て来た。そうして生涯安穏に世を送った弘法は、この叡山から京都の頭上を自身の学力と人格とで絶えず圧しつけた伝教の無謀さに比べて、政府という自然力よりも恐るべきこの世の最上の強権を操縦する術策を心得ていたのである。定雄は最上の強権を考えずして行う行為を、身を捨てた大乗の精神とは考えない性質であった。なぜかというなら、もし自我を押しすすめて行く伝教の行いを持続させていくなら、彼の死後につづく行者の苦慮は、必然的に天台一派に流れる底力を崩壊させていくのと等しいからである。
現に定雄は、千枝子と自分との間に挟まれて、不機嫌《ふきげん》そうにとぼとぼ歩いている子の清の足つきを見ていると、いつまで二人の歩みにつづいて来られるものかと、絶えず不安を感じてならなかった。そのうちにしつこく従《つ》いて来た駕籠かきは、いつの間にかいなくなっていたが、それに代って、清の足つきを見ていた婆さんがまだついて来て、子供を坂本|降《くだ》りのケーブルの所まで負わせてもらいたいと云って来た。
「どうする。清だけ負《おぶ》ってもらわないか」と定雄はまた云った。
「いいわ。歩けるわね」と千枝子は後ろの清を振り返った。
「それでも、まだまだ遠いどすえ。こんなお子さんで歩けやしまへんが、安う負けときますわ」と婆さんは云いながら、今度は清と定雄の間へ割り込んで来た。
「でも、この子は足が強いんですから、もういいんですの」
「負ってもらえ負ってもらえ」と定雄は云った。
「だって、もうすぐなんでしょう」と千枝子は婆さんに訊《たず》ねた。
「まだまだありますえ。安うお負けしときますがな。二十銭でいきますわ。どうせ帰りますのやで、一つ負わしておくんなはれ」
あくまで擦《す》りよって歩いて来る婆さんに、千枝子も根負けがしたらしく、
「清ちゃん、どうする。おんぶして貰う?」と訊ねた。
「僕、歩く」と清は云って婆さんから身を放した。
こんなときには、長く一人児だった清はいつも母親の方の味方をするに定《きま》っていた。
「あなた坂本まで帰るんですの」と千枝子は婆さんに訊ねた。
「ええ、そうです。毎日通ってますのや」
「おんぶして貰う人ありまして、こんなとこ?」
「このごろはあんまりおへんどすな。毎日手ぶらどすえ」と婆さんは云ったが、もう清を負うのは断念したらしく、旅の道連れという顔つきで千枝子と暢気《のんき》に並んで歩き出した。
定雄は傾きかかった気持ちもようやく均衡の取れて来るのを感じた。しかし、清は母と父とが自分のことで先から険悪になりかかっているのを感じているので、定雄が傍へ近づくとすぐ千枝子の身近へひっついて歩いた。定雄はこれから次ぎのケーブルまでこの婆さんがついて来るのだと思うと、気持ちを直してくれた婆さんであるにもかかわらず、先のいらだたしさがいつまた絡《から》みついて来るか知れない不安さを感じたので、今度は一番先頭に立って歩いていった。彼は歩きながらも、いま一人ここを歩いていたのでは今以上の満足を感じないであろうと思った。彼は幾度も京からこの道を通ったにちがいない伝教が、このあたりで、どんな満足を感じようとしたのかと、ふと雪路を歩いて浮ぶ彼の孤独な心理について考えてみた。伝教とて一山をここに置く以上は、衆生《しゅじょう》済度の念願もこのあたりの淋《さび》しさの中では、凡夫の心頭を去来する雑念とさして違う筈《はず》はあるまいと思われた。しかし、そのとき、定雄の頭の中には、京都を見降ろし、一方に琵琶湖の景勝を見降ろすこの山上を選んだ伝教の満足が急に分ったように思われた。それにひきかえて、今の自分の満足は、ただ何事も考えない放心の境に入るだけの満足で良いのであるが、それを容易に出来ぬ自分を感じると、一時も早く雪路を抜けて湖の見える山面へ廻りたかった。
間もなく、今まで暗かった道は急に開けて来て、日光の明るくさしている広場へ出た。そこは根本中堂のある一山の中心地帯になっていたが、広場から幾らか窪《くぼ》みの中にある中堂の廂《ひさし》からは、雪解の滴《したた》りが雨のように流れ下っていた。
「やっと来たぞ」定雄は後ろの千枝子と清の方を振り返った。
中堂の前まで行くには草履では行けそうもないので、三人はすぐ広場の端に立って下を見降ろした。早春の平野に包まれた湖が太陽に輝きながら、眼下に広広と横《よこたわ》っていた。
「まア大きいわね。わたし、琵琶湖ってこんなに大きいもんだとは思わなかったわ。まア、まア」と千枝子は云った。
定雄も久しく見なかった琵琶湖を眺めていたが、少年期にここから見た琵琶湖よりも、色彩が淡く衰えているように感じられた。殊に一目でそれと知れた唐崎《からさき》の松も、今は全く枯れ果ててどこが唐崎だか分らなかった。しかし、京都の近郊として一山を開くには、いかにもここは理想的な地だと思った。ただ難点はあまりにここは理想的でありすぎた。もしこういう場所を占有したなら、周囲から集る羨望《せんぼう》嫉視《しっし》の鎮《しずま》る時機がないのである。定雄はこの地を得られた伝教の地位と権威の高さを今さらに感じたが、絶えず京都と琵琶湖を眼下に踏みつけて生活した心理は、伝教以後の僧侶の粗暴な行為となって専横を行ったことなど、容易に想像出来るのであった。これをぶち砕くためには、信長のようなヨーロッパの思想の根源である耶蘇《やそ》教の信者でなければ、出来|難《にく》いにちがいない。定雄は神仏の安置所がこのような高位置にあるのはそれを守護する僧侶の心をかき乱す作用を与えるばかりで、却って衆生を救い難きに導くだけだと思われた。それに比べて親鸞の低きについて街へ根を降ろし、町家の中へ流れ込んだリアリスティックな精神は、すべて、重心は下へ下へと降すべしと説いた老子《ろうし》の精神と似通っているところがあるように思われた。
しかし、それにしても、定雄は琵琶湖を脚下に見降ろしても、まだ容易に放心は得られそうにもなかった。伝教とて、時の政府を動かすことに夢中になる以上に、所詮《しょせん》は放心を得んとして中心をこの山上に置いたにちがいないであろうが、それなら、それは完全な誤りであったのだ。定雄は根本中堂が広場より低い窪地《くぼち》の中に建てられて、眼下の眺望《ちょうぼう》を利《き》かなくさせて誤魔化してあるのも、苦慮の一策から出たのであろうと思ったが、すでに、中堂そのものが山上にあるという浪漫主義的な欠点は、一派の繁栄に当然の悪影響を与えているのである。
定雄は清と千枝子をつれて、いくらか下り加減になって道をまた歩いた。ここは京向きの道より雪も消えて明るいためでもあろう。鶯の鳴き声は前より一段と賑《にぎ》やかになって来た。彼は途中、青いペンキを塗った鶯の声を真似《まね》る竹笛を売っていたので、それを買って一つ自分が持ち、二つを清にやった。その小さな笛は、尻を圧《おさ》える指さきの加減一つで、いろいろな鶯の鳴き声を出すことが出来た。定雄は清に一声吹いてみせると、もう疲れで膨《ふく》れていた清も急ににこつき出して自分も吹いた。歩く後から迫って来るのか、鶯の声は湧《わ》き上るように頭の上でしつづけた。
定雄は吹く度にだんだん上達する笛の面白さにしばらく楽んで歩いていると、清も両手の笛を替る替る吹き変えては、木の梢《こずえ》から辷《すべ》り流れる日光の斑点《はんてん》に顔を染めながら、のろのろとやって来た。
「まるで子供二人つれて来たみたいだわ。早くいらっしゃいよ」
千枝子は清の来るのを待って云った。清は母親に云われる度に二人の方へ急いで馳《か》けて来たが、またすぐ立ち停った。道が樹のない崖際《がけぎわ》につづいて鶯の声もしなくなると、今度は清と定雄とが前と後とで竹笛を鳴き交《かわ》せて鶯の真似をして歩いた。そのうちに清もいつの間にか上手になって、
「ケキョ、ケキョ、ホーケッキョ」
とそんな風なところまで漕《こ》ぎつけるようになって来た。
「あ奴《いつ》の鶯はまだ子供だね。俺のは親鳥だぞ。お前も一つやってみないか」
定雄は笑いながら千枝子にそう云って、
「ホー、ホケキョ、ホー、ホケキョ」とやるのであった。
千枝子は相手にしなかったが、崖を曲るたびに現れる湖を見ては、手を額にあてながら楽しそうに立ち停って眺めていた。
間もなく三人はケーブルまで着いたが、まだ下る時間まで少しあったので、深い谷間に突き出た峰の頭を切り開いた展望場の突端へ行って、そこのベンチに休んだ。定雄は榧《かや》の密林の生え上って来ている鋭い梢の間から湖を見ていたが、ベンチの上に足を組むと仰向きに長くなった。彼は疲労で背中がべったりと板にへばりついたように感じた。すると、だんだん板に吸われていく疲労の快感に心は初めて空虚になった。彼はもう傍《そば》にいる子のことも妻のことも考えなかった。そうして眼を一点の曇りもない空の中に放ってぼんやりしていると、ふと自分が今死ねば大往生が出来そうな気がして来た。もう望みは自分には何もないと彼は思った。いや、枕が一つ欲しいと思ったが、それもなくとも別にたいしたことでもなかった。
千枝子も疲れたのか黙って動かなかったが、清だけはまだ、「ホー、ケッキョ、ケッキョ」と根よくくり返して笛を吹いた。
定雄はしばらく寝たまま日光にあたっていたが、もう間もなく発車の時刻になれば、今の無上の瞬間もたちまち過去の夢となるのだと思った。そのとき、急に彼の頭の中に、子のない自分の友人たちの顔が浮んで来た。すると、それは有り得べからざる奇妙な出来事のような気がして来て、どうして子のないのに日々を忍耐していくことが出来るのかと、無我夢中に暴れ廻った延暦寺《えんりゃくじ》の僧侶達の顔と一緒になって、しばらくは友人たちの顔が彼の脳中を去らなかった。しかし、これとて、ないものはないもので、有るものの煩悩《ぼんのう》のいやらしさをおかしく眺めて暮し終るのであろうと思い直し、ふとまた定雄は天上の澄み渡った中心に眼を向けた。
「神神よ照覧あれ、われここに子を持てり」
彼は俎《まないた》の上に大の字になって横《よこたわ》ったように、ベンチの上にのびのびと横っていた。彼は伝教のことなどもう今はどうでもよかった。しかし、時間は意外に早くたったと見えて、うつらうつら睡気《ねむけ》がさして来かかったとき、
「もう切符を切っていましてよ。早く行かないと遅れますわ」突然千枝子が云った。
「発車か、何んでも来い」と定雄は不貞不貞《ふてぶて》しい気になって起き上った。彼は坂道を駅の方へ馳け登って行く千枝子と清の背中を眺めながら、後から一人遅れて歩いていった。
定雄が車に乗るとすぐケーブルのベルが鳴った。つづいて車は湖の中へ刺さり込むように三人を乗せて真直ぐに
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