一人で来ていながら、まだ彼は一度も墓参をしなかったのである。
先きに行った子供らは定雄らがまだ石段を登り切らないうちに、もう上の境内を追っかけ合いをして来た足で、また石段を降りて来ると、今度は母親たちの裾《すそ》の周囲をきゃっきゃっと声を立てて追っ馳け合った。
「静になさい静に、また咳《せき》が出ますよ」と姉は敏子を叱《しか》った。
しかし、子供たちは初めて会った従姉弟《いとこ》同士なので、親たちの声を耳にも入れずまたすぐ階段を馳け上っていった。
一同|揃《そろ》って上に登り、納骨堂へ参拝して、それからいよいよ本堂で経を上げて貰《もら》わねばならぬのであるが、誦経《ずきょう》の支度のできるまで六人は庭向の部屋に入れられた。そこは日の目のさしたこともなかろうと思われるような、陰気な冷い部屋、畳は板のように緊《しま》って固く、天井は高かった。しかし、周囲の厚い金泥の襖《ふすま》は永徳《えいとく》風の絢爛《けんらん》な花鳥で息苦しさを感じるほどであった。定雄は部屋の一隅に二枚に畳んで立ててある古い屏風《びょうぶ》の絵が眼につくと、もう子供たちのことも忘れて眺《なが》め入った。葉の落ち尽した池辺の林のところどころに、木蓮《もくれん》らしい白い花が夢のように浮き上っていて、その下の水際《みずぎわ》から一羽の鷺《さぎ》が今しも飛び立とうとしているところであるが、朧《おぼ》ろな花や林にひきかえてその鷺一匹の生動の気力は、驚くばかりに俊慧《しゅんけい》な感じがした。定雄はこれは宗達《そうたつ》ではないかと思ってしばらく眼を放さずにいると、いつの間にか茶が出ていた。子供らは砂糖のついた煎餅《せんべい》を音無《おとな》しく食べていたが、定雄の末の二つになる子だけは、細く割りちらけて散乱している菓子の破片の中で、泳ぐように腹這《はらば》いになり、顔から両手にかけて菓子のかけらだらけにしたまま、定雄の見ている屏風を足でぴんぴん勢い良く蹴《け》りつけた。
「こりゃこりゃ」
定雄は次男の足の届かぬように屏風を遠のけると、また倦《あ》かず眺めていた。しかし、火鉢《ひばち》に火のあるのに、ひどくそこは寒かった。これではまた皆|風邪《かぜ》にやられるどころか、定雄自身もう続けさまに嚔《くさめ》が出て来た。そのうちにようやく経の用意も出来たので本堂へ案内されたが、来てみると、ここは一層寒いうえ
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング