。」
 反絵は卑弥呼の傍へ蹲《かが》むと、荒い呼吸を彼女の顔に吐きかけて、彼女の腰と肩とに手をかけた。しかし、卑弥呼は黙然として反耶の死体を眺めていた。
「卑弥呼、我は奴国《なこく》を攻める。我は爾を愛す、我は爾を欲す。卑弥呼、我の妻になれ。」
 彼女の頬《ほお》に付いていた白い羽毛の一端が、反絵の呼吸のために揺れていた。反絵はなおも腕に力を籠《こ》めて彼女の上に身を蹲めた。
「卑弥呼、卑弥呼。」
 彼は彼女を呼びながら彼女の胸を抱こうとした。彼女は曲げた片肱《かたひじ》で反絵の胸を押しのけると静にいった。
「待て。」
「爾は兄に身を与えた。」
「待て。」
「我は兄を殺した。」
「待て。」
「我は爾を欲す。」
「奴国の滅びたのは今ではない。」
 反絵の顔は勃発する衝動を叩《たた》かれた苦悩のために歪《ゆが》んで来た。そうして、彼の片眼は、暫時《ざんじ》の焦燥に揺られながらも次第に獣的な決意を閃《ひらめ》かせて卑弥呼の顔を覗《のぞ》き始めると、彼女は飛び立つ鳥のように身を跳ねて、足元に落ちていた反絵の剣を拾って身構えた。
「卑弥呼。」
「部屋を去れ。」
「我は爾を愛す。」
「奴国を攻めよ。」
「我は攻める。剣を放せ。」
「奴国の王子を長羅《ながら》という。彼を撃て。」
「我は撃つ。爾は我の妻になれ。」
「長羅を撃てば、我は爾の妻になる。部屋を去れ。」
「卑弥呼。」
「去れ。奴国の滅びたのは今ではない。」
 反絵は彼の片眼に怨恨《えんこん》を流して卑弥呼を眺めていた。しかし、間もなく、戦いに疲れた獣のように彼は足を鈍らせて部屋の外へ出ていった。卑弥呼は再び床の上へ俯伏《うつぶ》せに身を崩した。彼女は彼女自身の身の穢《けが》れを思い浮べると、彼女を取巻く卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の霊魂が今は次第に彼女の身辺から遠のいて行くのを感じて来た。彼女の身体は恐怖と悔恨とのために顫《ふる》えて来た。
「ああ、大兄、我を赦《ゆる》せ、我を赦せ、我のために爾は返れ。」
 彼女は剣を握ったまま泣き伏していたとき、部屋の外からは、突然喜びに溢れた威勢よき反絵の声が聞えて来た。
「卑弥呼、我は奴国を攻める。我は奴国を砂のように崩すであろう。」

       二十四

 耶馬台《やまと》の宮では、一人として王を殺害した反絵に向って逆《さから》うものはなかった。何故なら、耶馬台の宮の人々には、彼の狂暴な熱情と力とは、前から、国境に立ち昇る夜の噴火の柱と等しい恐怖となって映っていたのであったから。しかし、君長《ひとこのかみ》の葬礼は宮人《みやびと》たちの手によって、小山の頂きで行われた。二人の宿禰《すくね》と九人の大夫《だいぶ》に代った十一の埴輪《はにわ》が、王の柩《ひつぎ》と一緒に埋められた。そうして、王妃と、王の三頭の乗馬と、三人の童男とは、殉死者として首から上を空間に擡《もた》げたままその山に埋められた。貞淑な王妃を除いた他の殉死者の悲痛な叫喚は、終日終夜、秋風のままに宮のうえを吹き流れた。そうして、次第に彼らの叫喚が弱まると一緒に、その下の耶馬台の宮では、着々として戦《たたかい》の準備が整《ととの》うていった。先ず兵士《つわもの》たちは周囲の森から野牛の群れを狩り集めることを命ぜられると、次に数千の投げ槍と楯《たて》と矢とを造るかたわら、弓材となる梓《あずさ》や檀《まゆみ》を弓矯《ゆみため》に懸《か》けねばならなかった。反絵は日々兵士たちの間を馳け廻っていた。しかし、彼の卑弥呼を得んとする慾望はますます彼を焦燥せしめ、それに従い彼の狂暴も日に日にその度を強めていった。彼は戦々兢々《せんせんきょうきょう》として馳け違いながら立ち働く兵士たちの間から、暇ある度に卑弥呼の部屋へ戻って来た。彼は彼女に迫って訴えた。しかし、卑弥呼の手には絶えず抜かれた一本の剣《つるぎ》が握られていた。そうして、彼女の答えは定《きま》っていた。
「待て、奴国《なこく》の滅びたのは今ではない。」
 反絵はその度に無言のまま戸外へ馳け出すと、必ず彼の剣は一人の兵士を傷つけた。

       二十五

 奴国《なこく》の宮では、長羅《ながら》は卑弥呼《ひみこ》を失って以来、一つの部屋に横たわったまま起きなかった。彼は彼女を探索に出かけた兵士《つわもの》たちの帰りを待った。しかし、帰った彼らの誰もは弓と矢を捨てると黙って農夫の姿に変っていた。長羅は童男の運ぶ食物にも殆《ほとん》ど手を触れようともしなくなった。そればかりでなく、最早《もは》や彼を助ける一人残った祭司の宿禰《すくね》にさえも、彼は言葉を交えようとしなかった。そうして、彼の長躯《ちょうく》は、不弥《うみ》を追われて帰ったときの彼のごとく、再び矛木《ほこぎ》のようにだんだんと痩《や》せていった。彼の病原を洞察した宿禰は、蚯蚓《みみず》と、酢漿草《かたばみそう》と、童女の経水《けいすい》とを混ぜ合せた液汁を長羅に飲ませるために苦心した。しかし長羅はそれさえも飲もうとはしなかった。そこで、宿禰は奴国の宮の乙女《おとめ》たちの中から、優れた美しい乙女を選抜して、長羅の部屋へ導き入れることを計画した。しかし、第一日に選ばれた乙女と次の乙女の美しさは、長羅の引き締った唇の一端さえも動かすことが出来なかった。宿禰は憂慮に悩んだ顔をして、自ら美しい乙女を捜し出さんがため、奴国の宮の隅々《すみずみ》を廻り始めた。その噂《うわさ》を聞き伝えた奴国の宮の娘を持った母親たちは、己《おのれ》の娘に華《はな》やかな装《よそお》いをこらさせ、髪を飾らせて戸の外に立たせ始めた。そうして、彼女自身は己の娘を凌駕《りょうが》する美しい娘たちを見たときにはそれらの娘たちの古い悪行を、通る宿禰の後から大声で饒舌《しゃべ》っていった。こうして、第三に選ばれた美しい乙女は、娘を持つ奴国の宮の母親たちのまだ誰もが予想さえもしなかった訶和郎《かわろ》の妹の香取《かとり》であった。しかし、己の娘の栄誉を彼女のために奪われた母親たちの誰一人として、香取の美貌と行跡について難ずるものは見あたらなかった。何《な》ぜなら、香取の父は長羅に殺された宿禰であったから。彼女は父の惨死に次いで、兄の逃亡の後は、ただ一人訶和郎の帰国するのを待っていた。彼女にとって、父を殺した長羅は、彼女の心の敵とはならなかった。彼女の敵は、彼女がひとり胸底深く秘め隠していた愛する王子長羅を奪った不弥《うみ》の女の卑弥呼《ひみこ》であった。そうして、彼女の父を殺した者も、彼女にとっては、彼女を愛する王子長羅をして彼女の父を殺さしめた不弥の女の卑弥呼であった。選ばれた日のその翌朝、香取は宮殿から送られた牛車《ぎっしゃ》に乗って登殿した。彼女は宿禰が彼女を選んだその理由と、彼女に与えられた重大な責任とを、他に選ばれた乙女たちの誰よりも深く重く感じていた。彼女は藤色の衣を纏《まと》い、首からは翡翠《ひすい》の勾玉《まがたま》をかけ垂し、その頭には瑪瑙《めのう》をつらねた玉鬘《たまかずら》をかけて、両肱《りょうひじ》には磨かれた鷹《たか》の嘴《くちばし》で造られた一対の釧《くしろ》を付けていた。そうして、彼女の右手の指に嵌《はま》っている五つの鐶《たまき》は、亡き母の片身として、彼女の愛翫《あいがん》し続けて来た黄金の鐶であった。彼女は牛車から降りると、一人の童男に共《とも》なわれて宿禰の部屋へ這入《はい》っていった。宿禰は暫《しばら》く彼女の姿を眺めていた。そうして、彼はひとり得意な微笑をもらしながら、長羅の部屋の方を指差して彼女にいった。
「行け。」
 香取は命ぜられるままに長羅の部屋の杉戸の方へ歩いていった。彼女の足は戸の前まで来ると立《た》ち悚《すく》んだ。
「行け。」と再び後《うし》ろで宿禰の声がした。
 彼女は杉戸に手をかけた。しかし、もし彼女が不弥の女に負けたなら、そうして、彼女が、もし奴国の女を穢《けが》したときは?
「行け。」と宿禰の声がした。
 彼女の胸は激しい呼吸のために波立った。が、それと同時に彼女の唇は決意にひき締って慄《ふる》えて来た。彼女は手に力を籠《こ》めながら静《しずか》に杉戸を開いてみた。彼女の長く心に秘めていた愛人は、毛皮の上に横わって眠っていた。しかし、彼女の頭に映っていたかつての彼の男々《おお》しく美しかったあの顔は、今は拡まった窪《くぼ》みの底に眼を沈ませ、髯《ひげ》は突起した顋《おとがい》を蔽《おお》って縮まり、そうして、彼の両頬は餓えた鹿のように細まって落ちていた。
「王子、王子。」
 彼女は跪拝《ひざまず》いて小声で長羅を呼んだ。彼女の声はその気高き容色の上に赧《あか》らんだ。しかし、長羅は依然として彼女の前で眠っていた。彼女は再び膝を長羅の方へ進めて行った。
「王子よ、王子よ。」
 すると、突然長羅の半身は起き上った。彼は爛々《らんらん》と眼を輝かせて、暫く部屋の隅々を眺めていた。そうして、漸《ようや》く跪拝いている香取の上に眼を注ぐと、彼の熱情に輝いたその眼は、急に光りを失って細まり、彼の身体は再び力なく毛皮の上に横たわって眼を閉じた。香取の顔色は蒼然《そうぜん》として変って来た。彼女は身を床の上に俯伏《うつぶ》せた。が、再び弾《はじ》かれたように頭を上げると、その蒼《あお》ざめた頬に涙を流しながら、声を慄《ふる》わせて長羅にいった。
「王子よ、王子よ、我は爾《なんじ》を愛していた。王子よ、王子よ、我は爾を愛していた。」
 彼女は不意に言葉を切ると、身体を整えて端坐した。そうして、頭から静かに、玉鬘《たまかずら》を取りはずし、首から勾玉をとりはずすと、長羅の眼を閉じた顔を従容《しょうよう》として見詰めていた。すると、彼女の唇の両端から血がたらたらと流れて来た。彼女の蒼ざめた顔色は、一層その色が蒼ざめて落つき出した。彼女の身体は端坐したまま床の上に傾くと、最早《もは》や再びとは起き上って来なかった。こうして、兵部《ひょうぶ》の宿禰の娘は死んだ。彼女は舌を咬《か》み切《き》って自殺した。しかし、横たわっている長羅の身体は身動きもしなかった。

 香取の死の原因を知らなかった奴国の宮の人々は、一斉に彼女の行為を賞讃した。そうして、長羅を戴く奴国の乙女たちは、奴国の女の名誉のために、不弥《うみ》の女から王子の心を奪い返せと叫び始めた。第四の乙女が香取の次ぎに選ばれて再び立った。人々は斉しく彼女の美しさの効果の上に注目した。すると、俄然《がぜん》として彼女は香取のように自殺した。何《な》ぜなら香取を賞讃した人々の言葉は、あまりに荘厳であったから。しかし、また第五の乙女が宿禰のために選ばれた。人々の彼女に注目する仕方は変って来た。けれども、彼女の運命も第四の乙女のそれと等しく不吉な慣例を造らなければならないのは当然のことであった。こうして、奴国の宮からは日々に美しい乙女が減りそうになって来た。娘を持った奴国の宮の母親たちは急に己の娘の美しい装いをはぎとって、農衣に着せ変えると、宿禰の眼から家の奥深くへ隠し始めた。しかし宿禰はひとり、ますます憂慮に顰《ゆが》んだ暗鬱な顔をして、その眼を光らせながら宮の隅々をさ迷うていた。第六番目の乙女が選ばれて立った。人々は恐怖を以て彼女の身の上を気遣《きづか》った。その夜、彼らは乙女の自殺の報《し》らせを聞く前に、神庫《ほくら》の前で宿禰が何者かに暗殺されたという報導を耳にした。しかし、長羅の横たわった身体は殆ど空虚に等しくなった王宮の中で、死人のように動かなかった。
 或る日、一人の若者が、王宮の門前の榧《かや》の※[#「木+長」、第4水準2−14−94]《ほこだち》を見ると、疲れ切った体をその中へ馳け込ませてひとり叫んだ。
「不弥《うみ》の女を我は見た。不弥の女を我は見た。」
 若者の声に応じて出て来る者は誰もなかった。彼は高縁《たかえん》に差し込んだ太陽の光りを浴びて眠っている童男の傍を通りながら、王宮の奥深くへだんだんと這入《はい》っていった。
「不弥の女を我は見た。不弥の女は耶馬台《やまと》にいる。」
 長羅
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