でいる。爾は赤い卵を食え。山蟹の卵は爾の腹から我の強き男子《おのこ》を産ますであろう。来たれ。我は爾のごとき美しき女を見たことがない。来たれ。我とともに我の室《へや》へ来りて、酒盞《うくは》を干せ。」
君長は刈薦《かりごも》の上に萎《しお》れている卑弥呼の手をとった。長羅の顔は刺青《ほりもの》を浮かべて蒼白《あおじろ》く変って来た。
「父よ、何処へ行くか。」
「酒宴の用意は宜《よろし》きか。長羅よ。爾の持ち帰った不弥の宝は美事である。」
「父よ。」
「長羅よ。我は爾のために新らしき母を与えるであろう。爾は臥所《ふしど》へ這入って、戦いの疲れを憩《いこ》え。」
「父よ。」長羅は君長の腕から卑弥呼を奪って突き立った。「不弥の女は我の妻。我は妻を捜しに不弥へ行った。」
「長羅、爾は我を欺《あざむ》いた。不弥の女よ。我に来れ。我は爾を嫁《めと》りに長羅を遣《や》った。」
「父よ。」
「不弥の女よ。我とともに来れ。我は爾を奴国の何物よりも愛《め》でるであろう。」
君長は卑弥呼の手を引きながら長羅を突いた。長羅は剣を抜くと、君長の頭に斬りつけた。君長は燈油の皿を覆《くつがえ》して勾玉の上へ転がった。殿中は君長の周囲から騒ぎ立った。
政司《さいし》の宿禰は立ち上ると剣を抜いて、長羅の前に出た。
「爾は王を殺害した。」
長羅は宿禰を睥《にら》んで肉迫した。忽《たちま》ち広間の中の人々は、宿禰と長羅の二派に分れて争った。見る間に手と足と、角髪《みずら》を解いた数個の首とが斬《き》り落《おと》された。燈油の皿は投げられた。そうして、室の中は暗くなると、跳ね上げられた鹿の毛皮は、閃めく剣の刃さきの上を踊りながら放埒《ほうらつ》に飛び廻った。
卑弥呼は蒸被《むしぶすま》を手探りながら闇にまぎれて、尾花の玉簾《たますだれ》を押し分けた。その時、玉簾の後《うしろ》に今まで身を潜めていた訶和郎《かわろ》は、八尋殿《やつひろでん》の廻廊から洩れくる松明の光に照《てら》されて、突然に浮き出た不弥の女の顔を目にとめた。
「姫よ、待て。」
と訶和郎はいうと、広間の中へ飛び込もうとしていたその身を屈して彼女を横に抱き上げた。そうして、彼は宮殿の庭に飛び下り、厩《うまや》の前へ馳《か》けて行くと、卑弥呼の耳に口を寄せて囁《ささや》いた。
「姫よ、我と共に奴国を逃げよ。王子の長羅は、我と爾の敵である。爾を奪わば彼は我を殺すであろう。」
一頭の栗毛《くりげ》に鞭《むち》が上った。馬は闇から闇へ二人を乗せて、奴国の宮を蹴り捨てた。
長羅は蒸被の前へ追いつめた宿禰の肩を斬り下げた。そうして、剣を引くと、「卑弥呼、卑弥呼。」と呼びながら、部屋の中を馳け廻り、布被《ぬのぶすま》を引き開けた。玉簾を跳ね上げた。庭園へ飛び下りて、萩《はぎ》の葉叢《はむら》を薙《な》ぎ倒《たお》しつつ広場の方へ馳けて来た。
「不弥の女は何処へ行った。捜せ。不弥の女を捕えたものは宿禰にするぞ。」
再び庭に積まれた松明の小山は、馳け集った兵士たちの鉾尖に突き刺されて崩された。そうして、奴国の宮を、吹かれた火の子のように八方へ飛び散ると、次第に疎《まばら》に拡りながら動揺《どよ》めいた。
十一
訶和郎《かわろ》の馬は狭ばまった谷間の中へ踏み這入った。前には直立した岩壁から逆様に楠《くす》の森が下っていた。訶和郎は馬から卑弥呼を降して彼女にいった。
「馬は進まず。姫よ、爾《なんじ》は我とともに今宵《こよい》をすごせ。」
「追い手は如何《いかん》。」
「良し、姫よ。我は奴国《なこく》の宿禰《すくね》の子。我の父は長羅のために殺された。爾を奪う兵士《つわもの》を奴国の宮に滞《とど》めて殺された。長羅は我の敵である。もし爾が不弥の国になかりせば、我の父は我とともに今宵を送る。爾は我の敵である。」
「我の良人《おっと》は長羅の剣《つるぎ》に殺された。」
「我は知らず。」
「我の父は長羅の兵士に殺された。」
「我は知らず。」
「我の母は長羅のために殺された。」
「やめよ、我は爾の敵ではない。爾は我の敵である。不弥《うみ》の女。我は爾を奪う。我は長羅に復讐のため、我は爾に復讐のため、我は爾を奪う。」
「待て。我の復讐は残っている。」
「不弥の女。」
「待て。」
「不弥の女。我の願いを容れよ。然《しか》らずば、我は爾を刺すであろう。」
「我の良人は我を残して死んだ。我の父と母とは、我のために殺された。ひとり残っている者は我である。刺せ。」
「不弥の女。」
「刺せ。」
「我に爾があらざれば、我は死するであろう。我の妻になれ。我とともに生きよ。我に再び奴国の宮へ帰れと爾はいうな。我を待つ物は剣であろう。」
「待て。我の復讐は残っている。」
「我は復讐するであろう。我は爾に代って、父に代って復讐するであろう。」
「するか。」
「我は復讐する。我は長羅を殺す。」
「するか。」
「我は爾の夫に代って、爾の父と母に代って復讐する。」
「するか。」
「我は爾を不弥と奴国の王妃にする。」
その夜二人は婚姻した。頭の上には、蘭《らん》を飾った藤蔓《ふじづる》と、数条の蔦《つた》とが欅《けやき》の枝から垂れ下っていた。二人の臥床は羊歯《しだ》と韮《にら》と刈萱《かるかや》とであった。そうして卑弥呼《ひみこ》は、再び新らしい良人《おっと》の腕の中に身を横たえた。訶和郎《かわろ》は馬から鹿の毛皮で造られた馬氈《ばせん》を降《おろ》して、その妻の背にかけた。月は昇った。訶和郎は奴国の追い手を警戒するために、剣を抜いたまま眠らなかった。※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》は楠《くす》の穴から出てくると、ひとり枝々の間を飛び渡った。月の映る度《たび》ごとに、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠の眼は青く光って輝いた。そうして訶和郎の二つの眼と剣の刃は、山韮と刈萱の中で輝いた。
その時、突然、卑弥呼は身を顫《ふる》わせて訶和郎の腕の中で泣き出した。
十二
その夜から、奴国《なこく》の野心ある多くの兵士《つわもの》たちは、不弥《うみ》の女を捜すために宮を発った。彼らの中に荒甲《あらこ》という一人の兵士があった。彼の額《ひたい》から片頬《かたほお》にかけて、田虫《たむし》が根強く巣を張っていたために、彼の※[#「王+夬」、第3水準1−87−87]形《けっけい》の刺青《ほりもの》は、奴国の誰よりも淡かった。彼は卑弥呼《ひみこ》が遁走《とんそう》した三日目の真昼に、森を脱け出た河原の岸で、馬の嘶《いなな》きを聞きつけた。彼は芒《すすき》を分けてその方へ近づくと、馬の傍で、足を洗っている不弥の女の姿が見えた。荒甲は背を延ばして馳け寄ろうとした時に、兎と沙魚《はぜ》とを携《さ》げた訶和郎が芒の中から現れた。
「ああ、爾《なんじ》は荒甲、不弥の女を爾は見たか。」
荒甲は黙って不弥の女の姿を指さした。訶和郎は荒甲の首に手をかけた。と、荒甲の身体は、飛び散る沙魚と兎とともに、芒の中に転がされた。訶和郎は石塊を抱き上げると、起き上ろうとする荒甲の頭を目蒐《めが》けて投げつけた。荒甲の田虫は眼球と一緒に飛び散った。そうして、芒の茎にたかると、濡れた鶏頭《とさか》のようにひらひらとゆらめいた。訶和郎は死体になった荒甲の胴を一蹴りに蹴ると、追手《おって》の跫音《あしおと》を聞くために、地にひれ伏して苔《こけ》の上に耳をつけた。彼は妻の傍にかけていった。
「奴国の追手が近づいた。乗れ。」
馬は卑弥呼と訶和郎を乗せて瀬を渡った。数羽の山鴨《やまがも》と雀《すずめ》の群れが柳の中から飛び立った。前には白雲を棚曳《たなび》かせた連山が真菰《まこも》と芒の穂の上に連っていた。
「かの山々は。」
「不弥の山。」
「追手は不弥へ廻るであろう。」
「廻るであろう。」
卑弥呼は訶和郎と共に不弥に残った兵士たちを集めて奴国へ征《せ》め入《い》る計画を立てていた。しかし、二人を乗せた馬の頭は進むに従い、不弥を外《はず》れて耶馬台《やまと》の方へ進んでいった。秋の光りは訶和郎の背中に廻った衣の結び目を中心として、羽毛の畑のような芒の穂波の上に明るく降り注いだ。そうして、微風が吹くと、一様に背を曲げる芒の上から、首を振りつつ進む馬の姿が一段と空に高まった。空では鷸子《つぶり》と鳶《とび》とが円《まる》く空中の持ち場を守って飛んでいた。
十三
その夜二人は数里の森と、二つの峰とを越して小山の原に到着した。そこには椎《しい》と蜜柑《みかん》が茂っていた。猿は二人の頭の上を枝から枝へ飛び渡った。訶和郎《かわろ》は野犬と狼《おおかみ》とを防ぐために、榾柮《ほだ》を焚《た》いた。彼らは、数日来の経験から、追手の眼より野獣の牙《きば》を恐れねばならなかった。卑弥呼《ひみこ》はひとり訶和郎に添って身を横たえながら目覚めていた。なぜなら、その夜は彼女の夜警の番であったから。夜は更《ふ》けた。彼女は椎の梢《こずえ》の上に、群《むらが》った笹葉《ささば》の上に、そうして、静《しずか》な暗闇に垂れ下った藤蔓《ふじづる》の隙々《すきずき》に、亡き卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の姿を見た。
卑狗の大兄の幻が彼女の眼から消えてゆくと、彼女は涙に濡れながら、再び燃え尽きる榾柮の上へ新らしく枯枝を盛り上げた。猿の群れは梢を下りて焚火の周囲に集ってきた。そうして、彼女が枯枝を火に差《さ》し燻《く》べるごとに、彼らも彼女を真似て差し燻べた。
榾柮の次第に尽きかけた頃、山麓の闇の中から、突然に地を踏み鳴らす軍勢の響が聞えて来た。卑弥呼は傍の訶和郎を呼び起した。
「奴国の追手が近づいた、逃げよ。」
訶和郎は飛び起ると足で焚火《たきび》を踏み消した。再び兵士たちの鯨波《とき》の声が張り上った。二人は馬に飛び乗ると、立木に突きあたりつつ小山の頂上へ馳け登った。すると、芒《すすき》の原に掩《おお》われた小山の背面からは、一斉に枯木の林が動揺《どよ》めきながら二人の方へ進んで来た。それは牡鹿《おじか》の群だった。馬は散乱する鹿の中を突き破って馳け下った。と、原の裾《すそ》から白茅《ちがや》を踏んで一団の兵士が現れた。彼らは一列に並んだまま、裾から二人の方へ締め上げる袋の紐《ひも》のように進んで来た。訶和郎は再び鹿の後から頂上へ馳け戻った。その時、椎《しい》と蜜柑《みかん》の原の中から、再び新らしい鹿の群が頂へ向って押《お》し襲《よ》せて来た。そうして、訶和郎の馬を混えた牡鹿の群の中へ突入して来ると、鹿の団塊は更に大きく混乱しながら、吹き上げる黒い泡のように頂上で動揺《どよ》めいた。しかし、間もなく、渦巻く彼らの団塊は、細長く山の側面に川波のように流れていった。と行手の裾に、兵士たちの松明《たいまつ》が点々と輝き出した。そうして、それらの松明は、見る間に一列の弧線を描いて拡がると、忽《たちま》ち全山の裾を円形に取り包んで縮まって来た。鹿の流れは訶和郎の馬を浮べて逆上した。再び彼らの団塊は、小山の頂で踏み合い乗り合いつつ沸騰した。松明を映した鹿の眼は、明滅しながら弾動する無数の玉のように輝いた。その時、一つの法螺《ほら》が松明の中で鳴り渡った。兵士たちの収縮する松明の環《わ》は停止した。それと同時に、芒の原の空中からは一斉に矢の根が鳴った。鹿の群れは悲鳴を上げて散乱した。訶和郎の馬は跳ね上った。と、訶和郎は卑弥呼を抱いたまま草の上に転落した。しかし、彼は窪地の中に這《は》い降《お》りると、彼女の楯《たて》のようにひれ伏して矢を防いだ。矢に射られた鹿の群れは、原の上を狂い廻って地に倒れた。忽ち窪地の底で抱き合う二人の背の上へ、鹿の塊《かたま》りがひき続いて落ち込むと、間もなく、雑然として盛り上った彼らは、突き合い蹴り合いつつ次第に静《しずか》に死んでいった。そうして、彼らの傷口から迸《ほとばし》る血潮は、石垣の隙間を漏れる泉のように滾々《こんこん》として流れ始めると、二人の体を染めながら
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