り減《へ》って行くと、遽《にわか》に長羅の動かぬ一団の方へ潮《うしお》のように崩れて来た。それに和して、今まで彼と対峙《たいじ》して止どまっていた耶馬台の左翼の軍勢も、一時に鯨波《とき》の声を張り上げて彼の方へ押し寄せた。長羅の一団は彼を捨てて崩れて来た。長羅は一人馬上に踏みとまって、「返せ、返せ。」と叫び続けた。
その時、放してあった一人の奴国の斥候が彼の傍へ馳け寄って来ると、手を喇叭《らっぱ》のように口にあてて彼に叫んだ。
「不弥《うみ》の女を我は見た。見よ、不弥の女は赤い衣を纏《まと》っている。」
長羅は彼の指差す方を振り向いた。そこには、肉迫して来る刃《やいば》の潮の後方に、紅の一点が静々《しずしず》と赤い帆のように彼の方へ進んでいた。長羅はひらりと馬首を敵軍の方へ振り向けた。馬の腹をひと蹴り蹴った。と、彼は無言のままその紅の一点を目がけて、押し寄せる敵軍の中へただ一騎|驀進《ばくしん》した。鋒《ほこ》の雨が彼の頭上を飛び廻った。彼は楯《たて》を差し出し、片手の剣《つるぎ》を振り廻して飛び来る鋒を斬《き》り払《はら》った。無数の顔と剣が彼の周囲へ波打ち寄せた。彼の馬は飛び上り、跳ね上って、その人波の上を起伏しながら前へ前へと突き進んだ。長羅の剣は馬の上で風車のように廻転した。腕が飛び、剣が飛んだ。ばたばたと人は倒れた。と、急に人波は彼の前で二つに割れた。
「卑弥呼。」長羅の馬は突進した。そのとき、片眼の武将を乗せた黒い一騎が砂地を蹴って彼の前へ馳けて来た。
「聞け、我は耶馬台の王の反絵《はんえ》である。」
長羅の馬は突き立った。そうして、反絵の馬を横に流すと、円を描いて担《かつ》がれた高座《たかざ》の上の卑弥呼の方へ突進した。
卑弥呼の高座は、彼の馬首を脱しながら反絵の後へ廻っていった。長羅は輝いた眼を卑弥呼に向けた。
「卑弥呼。」
彼は馬を蹴ろうとすると、再び反絵の馬は疾風のように馳《か》けて来た。と、長羅は突然馬首を返すと、反絵の馬に向って突撃した。二頭の馬は嘶《いなな》きながら突き立った。楯が空中へ跳ね上った。再び馬は頭を合せて落ち込んだ。と、反絵の剣は長羅の腹へ突き刺さった。同時に、長羅の剣は反絵の肩を斬り下げた。長羅の長躯は反絵の上に躍り上った。二人の身体は逆様《さかさま》に馬の上から墜落すると、抱き合ったまま砂地の上を転った。蹴り合い、踏み合う彼らの足尖《あしさき》から、砂が跳ね上った。草葉が飛んだ。そうして、反絵の血走った片眼は、引《ひ》っ掴《つか》まれた頭髪に吊り上げられたまま、長羅の額を中心に上になり、下になった。二つの口は噛《か》み合った。乱れた彼らの頭髪は絡《から》まった鳥のようにぱさぱさと地を打った。
卑弥呼の高座は二人の方へ近か寄って来ると降された。しかし、耶馬台の兵士の中で、彼らの反絵を助けようとするものは誰もなかった。何《な》ぜなら、耶馬台の恐怖を失って、幸福を増し得る者は彼らであったから。彼らは卑弥呼と一緒に剣を握ったまま、血砂にまみれて呻《うめ》きながら転々する二人の身体を見詰めていた。彼らの顔は、一様に、彼らの美しき不弥の女を守り得る力を、彼女に示さんとする努力のために緊《ひ》き締《しま》っていた。しかし、間もなく彼らの前で、長羅と反絵の塊《かたま》りは、卑弥呼の二人の良人《おっと》の仇敵は、戦いながら次第にその力を弱めていった。そうして、反絵の片眼は瞑《つ》むられたまま砂の中にめり込むと、二人は長く重なったまま動かなかった。卑弥呼はひとり彼らの方へ近かづいた。そのとき、長羅は反絵の胸を踏みつけて、突然地から湧き出たように起き上った。彼は血の滴《したた》る頭髪を振り乱して、柔《やわらか》に微笑しながらその蒼《あお》ざめた顔を彼女の方へ振り向けた。
「卑弥呼。」
彼女は立ち停ると剣を上げて身構えた。兵士たちは長羅の方へ肉迫した。
「待て。」と彼女は彼らにいった。
「卑弥呼、我は爾《なんじ》を迎えにここへ来た。」
長羅は腹に反絵の剣を突き通したまま、両腕を拡げて彼女の方へ歩もうとした。しかし、彼の身体は左右に二足三足|蹌踉《よろ》めくと、滴る血の重みに倒れるかのようにばったりと地に倒れた。彼は再び起き上った。
「卑弥呼、爾は我と共に奴国へ帰れ。我は爾を待っていた。」
「爾は我の夫《つま》の大兄《おおえ》を刺した。」
「我は刺した。」
「爾は我の父と母とを刺した。」
「我は刺した。」
「爾は我の国を滅ぼした。」
「我は滅ぼした。」
長羅は再び蹌踉めきながら彼女の方へ歩みよった。と、またも彼の身体はどっと倒れた。振り上げた卑弥呼の剣は下がって来た。長羅はなおも起き上ろうとした。しかし、彼の胸は地に刺された人のように地を放れると地についた。そうして、彼は漸《ようや》く砂の上から額を上げると彼女の方へ手を延ばした。
「卑弥呼、我は爾を奪わんために、我の国を滅ぼした。我は爾を奪わんために我の父を刺した、宿禰を刺した。爾は返れ。」
長羅の蒼ざめた額は地に垂れた。
「卑弥呼、卑弥呼。」
彼は恰《あたか》も砂に呟《つぶや》くごとく彼女を呼ぶと、彼の瞼《まぶた》は閉じられた。卑弥呼の身体は顫《ふる》えて来た。彼女の剣は地に落ちた。
「大兄よ、大兄よ、我を赦せ。彼を刺せと爾はいうな。」
卑弥呼は頭をかかえると剣の上へ泣き崩れた。
「大兄よ、大兄よ、我を赦せ。我は爾のために長羅を撃った。我は爾のために復讐した。ああ、長羅よ長羅よ、我を赦せ。爾は我のために殺された。」
長羅と反絵と卑弥呼を残して、彼方《かなた》の森の中では、奴国の兵を追いながら、奴国の方へ押し寄せて行く耶馬台の軍の鯨波《とき》の声が一段と空に上った。
底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「日輪」春陽堂
1924(大正13)年5月18日
初出:「新小説」
1923(大正12)年5月号
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2009年5月13日作成
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