は鹿狩りの疲労と酒とのために、計画していた卑弥呼の傍へ行くべき時を寝過した。そうして、彼が眼醒《めざ》めたときは、耶馬台《やまと》の宮は、朝日を含んだ金色《こんじき》の霧の底に沈んでいた。彼は松明《たいまつ》の炭を踏みながら、霧を浮かべた園《その》の中で、堤《つつみ》のように積み上げられた鹿の死骸の中を通っていった。彼の眠りの足らぬ足は、鹿の堤から流れ出ている血の上で辷《すべ》った。遠くの麻の葉叢《はむら》の上を、野牛の群れが黒い背だけを見せて森の方へ動いていった。するとその最後の牛の背が、遽《にわか》に歩を早めて馳け出したとき、刺青《ほりもの》のために青まった一人の奴隷の半身が、赤く血に染った一人の身体を背負って、だんだんと麻の葉叢の上に高まって来た。そうして、反絵が園を斜めに横切って、卑弥呼の石窖《いしぐら》を眺めて立った時、奴隷の蜥蜴《とかげ》は一層曲りながら、石窖へ通る岩の上を歩いていった。奴隷を睥《にら》んだ反絵の片眼は強く反《そ》りを打った鼻柱の横で輝いた。
「ああ、訶和郎《かわろ》よ。」と石窖の中から卑弥呼の声が聞えて来た。
 奴隷は背負った赤い死体の胸を石窖の格子に立てかけて、倒れぬように死体の背を押しつけた。格子の隙《すき》から卑弥呼の白い両手が延び出ると、垂れた訶和郎の首を立て直していった。
「ああ爾《なんじ》は死んだ。爾は復讐を残して死んだ。爾は我のために殺された。」
 奴隷は死体の背から手を放した。彼は歓喜の微笑をもらしながら、首の勾玉を両手で揉《も》んだ。訶和郎の死体は格子を撫《な》でて地に倒れた。
 反絵は毛の生えた逞《たくま》しいその臑《すね》で霧を揺るがしながら石窖の前へ馳けて来た。
 訶和郎を抱き上げようとして身を蹲《かが》めた奴隷は、足音を聞いて背後を向くと、反絵の唇からむき出た白い歯並《はなみ》が怒気を含んで迫って来た。奴隷は吹かれたように一飛び横へ飛びのいた。
「女はわれに玉を与えた。玉は我の玉である。」
 彼は胸の勾玉を圧えながら、櫟《いちい》と檜《ひのき》の間に張り詰った蜘蛛《くも》の網を突き破って森の中へ馳け込んだ。
 反絵は石窖の前まで来ると格子を握って中を覗《のぞ》いた。
 卑弥呼は格子に区切られたまま倒れた訶和郎の前に坐っていた。
「旅の女よ。」と反絵はいってその額《ひたい》を格子につけた。
 卑弥呼は訶和郎を指差
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