かと一層不安が増して来た。彼は歩きながらも、これから将来において幾度こんなことがあるかしれないのだと思うと、悲しみついでに今一度にどっと悲しみに襲われてしまいたいと思った。
梶が探し疲れて家へ戻って来ると、迷い子になった子供はゴム風船を持って一人ぼんやりと勝手元に立っていた。一同のものは何ぜだか誰も黙っていた。梶も子供の姿を見ると何も云わずにその傍を通りぬけて奥の間へ這入ろうとした。
「交番の椅子にぼんやりひとり腰かけていたんですって。早くお礼を云ってきてちょうだい」
こうしばらくして梶は芳江に注意された。しかし、梶は容易に身体が動かなかった。
「早く行ってらっしゃる方が良いですね」
と手伝いの人がまた云った。そんな事は梶とて百も承知であったが、全く空虚になっている現在の自分の楽しさを思うと、ヨーロッパ旅行の楽しさなど比較にならぬと思って恍惚《こうこつ》としているときであったから、芳江や手伝いの人の言葉が梶には鞭《むち》のように腹立たしく感じられた。
「しかし、これがわがままというのだろう」
梶は腰を重くあげて夜道を交番の方へ歩いていった。もうここの警官にだけは一生頭が上らないと彼は思いながら、夜気に湿った草原の中を勢い良く歩くのだが、世界の思想や状勢に頭を使い、日本のあれこれを思い悩んだ自分の考察も、根元から吹き上げられてはこのように無力なものになるのかと、今さらおかしく淋しくなって来た。
その夜梶は海外へ行く前に日日寝つけた自分の部屋で、以前のままに敷いてある寝床の中へ初めて身体を横たえた。彼は天井を仰いでみた。背中は蒲団《ふとん》にぴたりとついて呼吸をする度にゆるやかに襟《えり》もとの動くのが眼についた。すると、弛《ゆる》んだ障子の根に添って見覚えの鼠《ねずみ》がちょろちょろと這い出て来ると梶を見詰めたままじっと様子を伺っていた。
「あーあ、もとの黙阿弥《もくあみ》か」
と梶は思わず口に出た。次ぎの部屋で床に這入ったらしい芳江は面白そうに声を立てて笑い出した。
底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年8月20日初版発行
1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:平野彩子
2001年3月5日公開
青空文庫作成ファイル:
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