みえ》でやるのか責任を感じてやるのかと、この婦人が訊ねるんですよ」
と梶に説明した。梶は友人に向って云った。
「それは見栄でも責任でもない。世の中の秩序を乱したと感じるものが、自分の行為を是認するために行うものだと云ってくれ給え。日本人は社会の秩序を何より重んじるから、自然に個人を無にしなければならぬ。つまり、生活の秩序を完成さすためには人間は意志的に無になる度胸を養成しなければならぬ。日本文化の一切の根柢はこの無の単純化から咲き出したもので、地球上の総《すべ》ての文化が完成されればこのようになるものだという模型を造っているような社会形態が、日本だと思うと云ってくれないか。つまり知性の到達出来る一種の限界までいっている義理人情の完璧《かんぺき》さのために、も早や知性は日本には他国のようには必要がないのだと思う」
梶の言葉を通訳してくれている友人の顔を見ながら、婦人は何の感動も表わさずに黙ってしまった。事実、梶は日本の文化にとって欧米の知性が必要なら自然科学にあるだけと思った。しかし、それも早やヨーロッパの行き得られる限界まで行ききっている日本を梶は感じるのであった。それなら日本の進むべき方向はどこであろうか。こう考えているときまた一人の若い作家が梶に訊ねた。
「日本の現在の左翼の状態はどんな風ですか」
「左翼はなかなか繁栄したときもあります。しかし、日本は昔からそのときの思想状態を是非必要と感覚しないかぎり、どのような思想も行為も無駄となりますから、そのために秩序が乱れる恐れが生じると、これを枯らしてしまう自然という恐ろしい力があるのです。この自然力は物理的なもので、ヨーロッパの知性も日本へ侵入して来る度に、この自然力と争わねばならぬのです。つまり、日本はいかなる思想も物もそれを選択する場合に個人の意志では出来ません。自然力に任せてこれの命ずるままに従わねばならぬのです。個人の役に立たぬそのような日本では、従って第一番の芸術家や思想家は自然という秩序です。日本の左翼も自然発生から自然消滅の形をとって進行していますが、それは思想の無力というよりも、思想と同程度に整えられた秩序の強力なためなのです」
梶の友人は彼の言葉を通訳すると、若い作家は肩を縮め両手を上げて驚きの表情を現した。しかし、彼は何事も云わずにすぐ隣りの彫刻家と話をした。そのとき、一番最後に這入って来た女の詩人が興奮しながらツァラアに囁《ささや》いた。
「今日ピカソに逢ったら、いよいよピカソも左傾しちまって、バスチイユ騒動の壁画を画くんですって」
「そうだ、それが正しい」
こういう声を包んで一同の話はだんだん低く不安そうな沈黙に変っていった。フランスの左翼の芸術家たちは今は自身のために芸術を滅ぼす危機にのぞんでいるのだった。それとは反対に今梶は秩序のために芸術を滅ぼしつつある日本を思い浮べた。しかしそれはただに芸術のみではなかった。たしかに世界の進行のカーブは類例のない暗転の舞台に入りつつあるのだ。しかも、舞台を停めようとする無数の手は押すべきボタンを探し廻って分らぬのである。ただ世界はあるがままの姿をとってひとり暗澹《あんたん》と廻っているだけなのだ。梶はどこからか悪魔の笑声の聞えて来る思いのままに虚空を眺めているとき、人人は立ってツァラアに握手をした。それぞれ帰って行くのである。梶も友人と一緒に帰ろうとして握手をしようとすると、
「もうしばらくいませんか」
とツァラアは二人に云った。一同の姿が見えなくなるとツァラアは二人をつれて三階の自分の書斎に導いていった。そこにはテーブルの上と云わず壁と云わず無数のアフリカ土人の黒黒とした彫刻の面が置いてあった。梶は奇怪な覆面に取り巻かれた感じで部屋の中を見廻していると、ツァラアは梶と向き合って立った。
「来客が沢山で日本のお話を聞けませなんだが、日本はどういう国ですか。僕は他の国のことならどこの国でも多少は想像がついているのだけれども、日本だけは少しも分らない」
静に低く云いながら梶を見るツァラアの眼は射るように光っていた。物云うたびに、梶は自分が日本人であることを意識せずには何事も出来ぬ気苦労をヨーロッパへ来て新しく感じたが、殊に日本をどのような国かと訊かれる質問に対してはいつも一番彼は困るのであった。しかし、それでも梶は一口で日本を巧妙に説明しなければならぬ危い橋を渡るのだ。虚心坦懐《きょしんたんかい》とは日本でこそ最も高貴な精神とされているが、ここでは最も馬鹿の見本であった。この二つの距離の間にはいったい何があるのであろうか。
「日本という国について外国の人人に知っていただきたい第一のことは、日本には地震が何より国家の外敵だということです。その外敵の侵入は歴史上に現れている限りでは二百七八十回ほどあります。
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