しごし擦《こす》り落しにかかったが、ふと前に一足触った芳江の皮膚の柔かな感触だけが、嘘《うそ》のようなうつつの世界から強くさし閃《ひらめ》いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有難いこの世の実物の手ごたえだと思われて、今さら子供の生れて来た秘密の奥も覗《のぞ》かれた気楽さに立ち戻り、またごろりと手枕のまま横になった。
 世界のどこかに自分の子供があるということは、全く捨て置き難い。この地を愛せずしてなるものか。――南無《なむ》、天地、仏神、健《すこや》かにましまし給え。敵や悪魔を払い給えと、梶は胡桃《くるみ》の葉かげからきらめく日光に眼を射られながら、空の青さ広さに大の字となり、畳の上の喜ばしさに再びきょろきょろと飽かず周囲を見廻した。

 今まで度度東北地方へ来たにも拘らず、梶はこの度ほどこの地方の美しさを感じたことはなかった。親子兄妹が同じ町内に住んでいながら、顔を合せば畳の上へ額を擦《す》りつけて礼をするのも、奇怪以上に美しく梶は見惚《みと》れるのであった。稲穂の実り豊かに垂れている田の彼方《かなた》に濃藍色《のうらんしょく》に聳《そび》える山山の線も、異国の風景を眼にして来た梶には殊の他《ほか》奥ゆかしく、遠いむかしに聞いた南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の声さえどこからか流れて来るように思われた。
 梶はこの風景に包まれて生れ、この稲穂に養われて死ぬものなら、せめてそれを幸福と思いたかったのが、今にしてようやくそれと悟った楽しさを得られたのも、遅まきながら異国の賜物だと喜んだ。全くこの独特な小さい稲穂の中で、押し合いへし合い捻《ね》じ合いつつ、無我夢中に成長して来たわれらの祖先の演劇は、何ものの中にも血となり肉となりしてこり塊《かたま》っていることこそ争い難い事実であった。
 笑わば笑え。真正真銘の悲劇喜劇もこれに増した痛烈な事件はあるまい。――こう梶の思う心の中で、ヨーロッパの知性に飛びついている顔が、足をぶらぶらさせていったい何を笑っているのか判然としなかった。
 世の中はぜんたいどこへ行くのであろう。――深夜眠れぬままにときどきこのように思ったパリーでの瞑想《めいそう》も、も早や梶から形をとり壊《こわ》して安らかに鎮《しずま》って来るのであった。このようなときには、梶に突き刺さって来た敵の槍《やり》さきも、蹴脱《けはず
前へ 次へ
全24ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング