だけは思つた。そして妙に気にかゝつてならなかつた。(食ひたいな)
 その時遠くの方から馬の嘶声が聞えた。彼は刺されたやうに首をあげて耳を立てた。
(おや! あれや牝馬の声だぞ。)もう橙のことを捨てたやうに忘れて了つて、猶じつと聞いてゐた。(牝馬だ。牝馬だ)迅速な勢でギユーと何かしら背骨を伝つて下へ走つた。彼は前足を豆台の上へ乗つかけて飛び出ようとした。両側の縄がピンと張つて口をウンと云ふ程引いた。で彼は直ぐ足を落ろした。頭の中がガーンと鳴つてゐた。狂ひ出しさうになつた。で後足に力を込めて、無茶苦茶に床板を蹶つた。社務所から男が来て彼を鎮めた。それでも未だ馬舎の中で立ち上つたりした。頭がはつきりした時には、牝馬の嘶声が聞えなかつた。彼はその方にじつと向いてゐた。
 淡藍の遠山がかすんでゐた。海には白帆が二三点見えた。暖い陽が総てのものゝ上に愉快げに見える。子供の喇叭を吹く音が聞えて来た。入道雲が動かない。
(何処で嘶いたのだらう。)
 彼の前には綺麗な若い娘と白髪を後頭で刈り切つた老婆とが立つてゐた。老婆は財布から二銭玉を出して、机の上にのせて、一升の豆を豆台に投げた。それから両手で何かを頂くやうな真似をした。其処へ黒犬の大きいのが尾を振りながらやつて来て、立ち止つて彼を見た。少し首をかしげてゐる。
(ははア、此奴、豆を盗まうと思つてゐやがるんだな)彼はあわてて豆を食つた。老婆も娘も犬も彼の前から去つた。
 軈て人通りが少くなつた。日が落ちた。淡闇が海を渡つてきた。白帆がもう見えぬ。星が廂の角で光つてゐる。湿つぽりした風が緩く吹いて来た。鳥が海から帰つて来る。畑にはもう人が見えぬ。奥から鐘がゴーンと鳴つて来た。いつもの男が彼の所へ、豆粕と藁とを混ぜた御馳走を槽に容れて持つて来た。彼は残らず平げた。そして男は重い戸をピツタリ落ろした。真暗になつた。外で錠前の音がカチ/\とした。今日も知らない一日を彼は生きた。



底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「文章世界」博文館
   1917(大正6)年7月1日発行、第12巻第7号
初出:「文章世界」博文館
   1917(大正6)年7月1日発行、第12巻第7号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
※くの字点は、底本のママとしました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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