たがために、私は即座にこの地を選んで移り棲《す》む決心をしたのであったから、ちょうどその風景に適合したように現れて来た高次郎氏の姿も、自然な感興を喚《よ》び起したにちがいないが、いずれにせよその方が私にはこの地を選んだ甲斐《かい》もあったと喜ぶべきである。私はときどき仕事に疲れ夜中ひとり火鉢《ひばち》に手を焙《あぶ》りながら、霙《みぞれ》の降る音などを聞いているとき、ふと高次郎氏は今ごろはどうしているだろうと思ったりすることもあって、人には云わず、泡のように心中を去来する人影の一人になっていたころである。ある日、私の家の二階から見降せる所に、二十間ほど離れた茶畑の一隅が取り払われ、そこへ石つきが集って十坪にも足らぬ土台石を突き堅めている声が聞えて来た。
「家が建つんだなア。近所へ建つ最初の家だ。あれは」
こんなことを私は家内と話していると、また八百屋の小僧が来て、そこへは高次郎氏の家が建つのだと告げていった。自分の家の傍へ知らぬ人の家の建つときには、来るものはどんな人物かと気がかりなものだが、それが高次郎氏の家だと分ると急に私は心に明るさを感じた。しかし、また小さな私の家よりはるかに狭い彼の家の敷地を見降して、堂々たる風貌におよそ似もつかぬその小ささに、絶えずこれから見降さねばならぬ私の二階家が肩の聳《そび》えた感じに映り、これは困ったことになったと私は苦笑した。故《ゆえ》もなく自分の好きな人物に永久に怒りを感じさせるということはこの土地を選んだ最初の私の目的に反するのである。
ともかく高次郎氏は最初の私の家の隣人となって、暮のおし迫ったころ樹木の多い伯爵家の庭の中から明るい茶畑の中の自分の家へ移って来た。高次郎氏が足を延ばせば壁板から足の突き出そうな、薄い小さな平家《ひらや》だった。私は傍を通るたびに、中を注意したがる自分の視線を叱《しか》り反《かえ》して歩くように気をつけたが、間もなく周囲に建ち並んで来るにちがいない大きな家に押しつめられ氏の家の平和も破れる日が来るのではないかと心配になることもあった。
朝家を出るとき敷島を口に咥《くわ》え、ひらりと自転車に乗るときのゆったりした高次郎氏の姿を私の見たのは一度や二度ではなかった。また細君のみと子夫人が、背中の上の方に閂《かんぬき》のかかった薄鼠色の看守服の良人を門口まで送って出て、
「行ってらっしゃい。行ってらっしゃい」
と高くつづけさまに云って手を振り、主人の見えなくなるまで電柱の傍に立ちつくしている姿も、これも雨が降っても雪が降っても毎朝変らなかった。私の家内もこの新しい隣家の主婦の愛情の細やかさが暫《しばら》くは乗りうつったこともあったが、とうてい敵ではないとあきらめたらしくすぐ前に戻った。
「どうも、お前を叱るとき大きな声を出したって、ここなら大丈夫と思って来たのに、これじゃ駄目だ」
と私は家内と顔見合せて笑ったこともある。二階建から平屋の向うを圧迫する気がねがこちらにあったのに、実は絶えず下から揺り動かされている結果となって来た滑稽《こっけい》さは、年中欠かさず繰りつづけられるのであった。私の家の女中も加藤家と私の家とをいつも比較していると見えて、
「あたくし結婚するときには、あんな旦那《だんな》様と結婚したいと思いますわ」
とふと家内に洩《もら》したことがあった。八百屋の老主婦ばかりではなく、私の家の女中も朝ペタルを踏んで出て行く高次郎氏には、丁寧にお辞儀をするのを忘れない風だった。そのためもあろうか女中は塀《へい》の外の草ひきだけは毎朝早く忘れずにする癖も出来た。この女中は二年ほどして変ったが次に来た女中も、加藤夫妻の睦《むつま》じさには驚いたと見え、塀の外の草ひきだけはまめまめしく働いた。顔自慢で村の若者たちから騒がれたこともあるとかで、幾らか横着な性質だったから、ある日も家内に、
「あのう加藤さんところの奥さんは、やきもちやきですわね。さっきあそこの旦那さんのお出かけのとき、一寸《ちょっと》旦那さんに物を云いましたら、奥さんがじろっとあたしを睨《にら》むんですのよ」
とこの女中はさも面白そうな声で告げ口した。しかし、この女中も間もなく嫁入りをした。そのころになると、私の家の附近いったいの森はすべて截《き》り払われ、空地には私の家より大きな家が次ぎ次ぎに建ち出した。そのため予想のように加藤家はあるか無きかのごとき観を呈して窪《くぼ》んでいったが、夫妻の愛情の細やかさは、前と少しも変りはなかった。銭湯へ行くときでも二人は家の戸を閉め一緒に金盥《かなだらい》を持って出かけ、また並んで帰って来た。高次郎氏の役所からの帰りには必ず遠くまで夫人は出迎えにいっていた。小さな躑躅《つつじ》や金盞花《きんせんか》などの鉢植《はちうえ》が少しずつ増えた狭い庭で、
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