、劣らず堂々とした立派な風貌《ふうぼう》で脊《せい》も高く、互に強く信じ合い愛し合っている満足した様子が一|瞥《べつ》して感じられた。晴れた日など若葉の間を真直ぐに前方を見ながら来る二人の満ち足りたような姿は、遠くから見ていても稀《まれ》に見る幸福そうな良い感じだった。今までからも私は楽しげな夫婦を幾つも見て来ているが、この二人ほど、他所見《よそみ》をせず、壊《こわ》れぬ幸福をしっかり互に守っているらしい夫婦はあまり見なかったのでそれ以来、特に私は注意するようになった。話す機会は一度もなかったが、間もなく良人の方は陸軍刑務所の看守で朝毎に自転車で役所へ通うということや、細君の方は附近の娘たちに縫物《ぬいもの》を教えているということなど、だんだん分って来ると、またその特殊な二人の生活が一層私の興味を動かした。
主人の方の名を加藤高次郎といい、私の家から二町ほど離れたある伯爵の庭の中の小さな家にいる人だということも、出入りの八百屋の小僧の口から私は知ることが出来た。またその小僧の口から、八百屋の老いた主婦が加藤高次郎氏の立派な姿に、朝ごとにぼんやり見惚《みと》れているとまで附け加えて語ったことがある。とにかく、もう老年の八百屋の主婦が、朝毎にペダルを踏んで通る高次郎氏の姿に見惚れるというようなことは、私もともに無理なく頷《うなず》くことが出来るのである。高次郎氏の容貌《ようぼう》には好男子ということ以外に、人格の美しさが疑いもなく現れていたからだった。老年の婦人というものはただの馬鹿な美男子に見惚れるものではない。
私はこんなに思うことがある。――人間は生活をしているとき特に観察などをしようとせず、ぼんやりとしながらも、自然に映じて来た周囲の人の姿をそのまま信じて誰も死んでしまうものだということを。そして、その方が特に眼をそばだてて観察したり分析したりしたことなどよりも、ときには正確ではなかろうかということをしばしば感じる。高次郎氏のことにしても、私は眼をそば立てて注意していたわけではなく、以下自然に私の眼に映じて来たことのみで彼のことを書きたいと思う。
高次郎氏は軍人の間ではかなり高名な剣客だということも、私の耳にいつか努力することなく聞えて来た。見たところ高次郎氏は無口で声も低く、性格も平凡なようだった。私のいるこのあたり一帯の風景が極《きわ》めて平凡に見え
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング