に満ちて来るのを覚え襟《えり》を正す気持ちだった。
「冷え立ちし夜床にさめて手さぐりに吾子の寝具かけなほしけり」
「井の端にもの洗ひ居《を》る我が妻は啖《たん》吐く音に駆けてきたれる」
この歌など高次郎氏の啖吐く音にも傍まで駆けよって来るみと子夫人の日常の様子が眼に泛《うか》んで来るほどだが、これらの歌とは限らず、どの歌も人格の円満さが格調を強め高めているばかりではない、生活に対して謙虚清澄な趣きや、本分を尽して自他ともどもの幸福を祈ってやまぬ偽りのない心境など、外から隣人として見ていた高次郎氏の温厚質実な態度以上に、はるかに和歌には精神の高邁《こうまい》なところが鳴りひびいていた。
暫くの間、私はこのあたりに無言でせっせっと鍬《くわ》を入れて来た自分の相棒の内生活を窺《のぞ》く興味に溢《あふ》れ、なお高次郎氏の歌集を読んでいった。妻を詠《うた》い子を詠う歌は勿論《もちろん》、四季おりおりの気遣《きづか》いや職務とか人事、または囚人の身の上を偲《しの》ぶ愛情の美しさなど、百三十二ほどのそれらの歌は、読みすすんでゆくに随《したが》い私には一句もおろそかに読み捨てることが出来ないものばかりだった。私ら二人は新年の挨拶以外に言葉を交《まじ》えたことはなかったとはいえ、どちらも十幾年の月日を忍耐して来た一番の古参である。この歌集の序文にも加藤高次郎君は剣道よりも後から和歌に入りまだ十幾年とはたたぬのに、かくも精神の高さにいたったことは驚歎に価すると歌の師匠が書いているが、私には、高次郎氏の歌はどの一首も思いあたることばかりだったのみならず、すべてそれは氏の亡くなってから私に生き生きと話しかけて来る声だった。私は身を乗り出し耳を傾ける構えだった。
「一剣に心こもりておのづから身のあはだつをかそかに知れり」
「正眼に構えて敵に対《むか》ひつつしばし相手の呼吸をはかる」
これは戸山学校の剣道大会に優勝したときの緊張した剣客の歌である。次にこういうのがあった。
「ことたれる日日の生活《たつき》に慣れにつつ苦業求むる心うすらぐ」
この歌は恐らくみと子夫人の情愛に、いつとなく慣れ落ちてしまった高次郎氏の悔恨に相違あるまい。このような歌を作った歌人はあまり私の知らないところだが、また私にも同様の悔恨が常に忍びよって来て私を苦しめることがある。
「現身《うつしみ》のもろき生命《いの
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