《たちと》なき深き泥の中に沈めり。われ深水《ふかみず》におちいる。おお水わが上を溢《あふ》れ過ぐ。われ歎きによりて疲れたり。わが喉《のど》はかわき、わが目はわが神を待ちわびて衰えぬ」
彼と妻とは、もう萎《しお》れた一対の茎のように、日日黙って並んでいた。しかし、今は、二人は完全に死の準備をして了った。もう何事が起ろうとも恐がるものはなくなった。そうして、彼の暗く落ちついた家の中では、山から運ばれて来る水甕《みずがめ》の水が、いつも静まった心のように清らかに満ちていた。
彼の妻の眠っている朝は、朝毎に、彼は海面から頭を擡《もた》げる新しい陸地の上を素足で歩いた。前夜満潮に打ち上げられた海草は冷たく彼の足にからまりついた。時には、風に吹かれたようにさ迷い出て来た海辺の童児が、生々しい緑の海苔《のり》に辷《すべ》りながら岩角をよじ登っていた。
海面にはだんだん白帆が増していった。海際《うみぎわ》の白い道が日増しに賑《にぎ》やかになって来た。或る日、彼の所へ、知人から思わぬスイトピーの花束が岬を廻って届けられた。
長らく寒風にさびれ続けた家の中に、初めて早春が匂《にお》やかに訪れて来たのである。
彼は花粉にまみれた手で花束を捧《ささ》げるように持ちながら、妻の部屋へ這入っていった。
「とうとう、春がやって来た」
「まア、綺麗《きれい》だわね」と妻は云うと、頬笑《ほほえ》みながら痩《や》せ衰えた手を花の方へ差し出した。
「これは実に綺麗じゃないか」
「どこから来たの」
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒《ま》き撒きやって来たのさ」
妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚《こうこつ》として眼を閉じた。
底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年8月20日発行
1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:もりみつじゅんじ
2000年9月1日公開
青空文庫作成ファイル:
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