よ。私のことを、一寸《ちょっと》もよく思ってして下さるんじゃないんだわ」
 彼はここまで妻から肉迫されて来ると、当然彼女の檻の中の理論にとりひしがれた。だが、果して、自分は自分のためにのみ、この苦痛を噛み殺しているのだろうか。
「それはそうだ、俺はお前の云うように、俺のために何事も忍耐しているのにちがいない。しかしだ、俺が俺のために忍耐していると云うことは、一体|誰故《だれゆえ》にこんなことをしていなければ、ならないんだ。俺はお前さえいなければ、こんな馬鹿な動物園の真似《まね》はしていたくないんだ。そこをしていると云うのは、誰のためだ。お前以外の俺のためだとでも云うのか。馬鹿馬鹿しい」
 こう云う夜になると、妻の熱は定《きま》って九度近くまで昇り出した。彼は一本の理論を鮮明にしたために、氷嚢《ひょうのう》の口を、開けたり閉めたり、夜通ししなければならなかった。
 しかし、なお彼は自分の休息する理由の説明を明瞭《めいりょう》にするために、この懲りるべき理由の整理を、殆《ほとん》ど日日し続けなければならなかった。彼は食うためと、病人を養うためとに別室で仕事をした。すると、彼女は、また檻の中
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