彼は妻の傍で、彼女に課せられた聖書を時々読み上げた。
「エホバよ、願くば忿恚《いきどおり》をもて我をせめ、烈《はげ》しき怒りをもて懲《こ》らしめたもうなかれ。エホバよ、われを憐《あわ》れみたまえ、われ萎《しぼ》み衰うなり。エホバよわれを医《いや》したまえ、わが骨わななき震う。わが霊魂《たましい》さえも甚《いた》くふるいわななく。エホバよ、かくて幾その時をへたもうや。死にありては汝《なんじ》を思い出《い》ずることもなし」
 彼は妻の啜《すす》り泣くのを聞いた。彼は聖書を読むのをやめて妻を見た。
「お前は、今何を考えていたんだね」
「あたしの骨はどこへ行くんでしょう。あたし、それが気になるの」
 ――彼女の心は、今、自分の骨を気にしている。――彼は答えることが出来なかった。
 ――もう駄目だ。
 彼は頭を垂れるように心を垂れた。すると、妻の眼から涙が一層激しく流れて来た。
「どうしたんだ」
「あたしの骨の行き場がないんだわ。あたし、どうすればいいんでしょう」
 彼は答えの代りにまた聖書を急いで読み上げた。
「神よ、願くば我を救い給え。大水ながれ来《きた》りて我たましいにまで及べり。われ立止
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