饒舌《じょうぜつ》に煽動《せんどう》させられた彼の妻は、最初の接吻《せっぷん》を迫るように、華《はな》やかに床の中で食慾のために身悶《みもだ》えした。彼は惨酷に臓物を奪い上げると、直ぐ鍋《なべ》の中へ投げ込んで了うのが常であった。
 妻は檻《おり》のような寝台の格子《こうし》の中から、微笑しながら絶えず湧《わ》き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣《けもの》だね」と彼は云った。
「まア、獣だって、あたし、これでも奥さんよ」
「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性を湛《たた》えている」
「それはあなたよ。あなたは理智的で、惨忍性をもっていて、いつでも私の傍から離れたがろうとばかり考えていらしって」
「それは、檻の中の理論である」
 彼は彼の額に煙り出す片影のような皺《しわ》さえも、敏感に見逃《みのが》さない妻の感覚を誤魔化すために、この頃いつもこの結論を用意していなければならなかった。それでも時には、妻の理論は急激に傾きながら、彼の急所を突き通して旋廻することが度々《たびたび》あった。
「実際、俺はお前の傍に坐っているのは、そりゃいやだ。肺病と云うものは、決して幸福なものではないからだ」
 彼はそう直接妻に向って逆襲することがあった。
「そうではないか。俺はお前から離れたとしても、この庭をぐるぐる廻っているだけだ。俺はいつでも、お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の画《えが》く円周の中で廻っているより仕方がない。これは憐《あわ》れな状態である以外の、何物でもないではないか」
「あなたは、あなたは、遊びたいからよ」と妻は口惜《くや》しそうに云った。
「お前は遊びたかないのかね」
「あなたは、他の女の方と遊びたいのよ」
「しかし、そう云うことを云い出して、もし、そうだったらどうするんだ」
 そこで、妻が泣き出して了うのが例であった。彼は、はッとして、また逆に理論を極《きわ》めて物柔らかに解きほぐして行かねばならなかった。
「なるほど、俺は、朝から晩まで、お前の枕元にいなければならないと云うのはいやなのだ。それで俺は、一刻も早く、お前をよくしてやるために、こうしてぐるぐる同じ庭の中を廻っているのではないか。これには俺とて一通りのことじゃないさ」
「それはあなたのためだからよ。私のことを、一寸《ちょっと》もよく思ってして下さるんじゃないんだわ」
 彼はここまで妻から肉迫されて来ると、当然彼女の檻の中の理論にとりひしがれた。だが、果して、自分は自分のためにのみ、この苦痛を噛み殺しているのだろうか。
「それはそうだ、俺はお前の云うように、俺のために何事も忍耐しているのにちがいない。しかしだ、俺が俺のために忍耐していると云うことは、一体|誰故《だれゆえ》にこんなことをしていなければ、ならないんだ。俺はお前さえいなければ、こんな馬鹿な動物園の真似《まね》はしていたくないんだ。そこをしていると云うのは、誰のためだ。お前以外の俺のためだとでも云うのか。馬鹿馬鹿しい」
 こう云う夜になると、妻の熱は定《きま》って九度近くまで昇り出した。彼は一本の理論を鮮明にしたために、氷嚢《ひょうのう》の口を、開けたり閉めたり、夜通ししなければならなかった。
 しかし、なお彼は自分の休息する理由の説明を明瞭《めいりょう》にするために、この懲りるべき理由の整理を、殆《ほとん》ど日日し続けなければならなかった。彼は食うためと、病人を養うためとに別室で仕事をした。すると、彼女は、また檻の中の理論を持ち出して彼を攻めたてて来るのである。
「あなたは、私の傍をどうしてそう離れたいんでしょう。今日はたった三度よりこの部屋へ来て下さらないんですもの。分っていてよ。あなたは、そう云う人なんですもの」
「お前と云う奴は、俺がどうすればいいと云うんだ。俺は、お前の病気をよくするために、薬と食物とを買わなければならないんだ。誰がじっとしていて金をくれる奴があるものか。お前は俺に手品でも使えと云うんだね」
「だって、仕事なら、ここでも出来るでしょう」と妻は云った。
「いや、ここでは出来ない。俺はほんの少しでも、お前のことを忘れているときでなければ出来ないんだ」
「そりゃそうですわ。あなたは、二十四時間仕事のことより何も考えない人なんですもの、あたしなんか、どうだっていいんですわ」
「お前の敵は俺の仕事だ。しかし、お前の敵は、実は絶えずお前を助けているんだよ」
「あたし、淋《さび》しいの」
「いずれ、誰だって淋しいにちがいない」
「あなたはいいわ。仕事があるんですもの。あたしは何もないんだわ」
「捜せばいいじゃないか」
「あたしは、あなた以外に捜せないんです。あたしは、じっと天井を見て寝て
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