も、雨の降っている所でなくちゃ行く気がしない」
「あたしも行きたい」と妻は云うと、急に寝台の上で腹を波のようにうねらせた。
「お前は絶対安静だ」
「いや、いや、あたし、歩きたい。起してよ、ね、ね」
「駄目だ」
「あたし、死んだっていいから」
「死んだって、始まらない」
「いいわよ、いいわよ」
「まア、じっとしてるんだ。それから、一生の仕事に、松の葉がどんなに美しく光るかって云う形容詞を、たった一つ考え出すのだね」
 妻は黙って了った。彼は妻の気持ちを転換さすために、柔らかな話題を選択しようとして立ち上った。
 海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一|艘《そう》の舟が傾きながら鋭い岬《みさき》の尖端《せんたん》を廻っていった。渚《なぎさ》では逆巻く濃藍色《のうらんしょく》の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑《かみくず》のように坐っていた。
 彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於《おい》て働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、譬《たと》えば砂糖を甜《な》める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味《うま》かったか。――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先《ま》ず透明でなければならぬ。と彼は考えた。

 ダリヤの茎が干枯《ひから》びた繩《なわ》のように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹きつけて来て冬になった。
 彼は砂風の巻き上る中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の臓物を捜しに出かけて行った。彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片端から訪ねていって、そこの黄色い爼《まないた》の上から一応庭の中を眺め廻してから訊《き》くのである。
「臓物はないか、臓物は」
 彼は運好く瑪瑙《めのう》のような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。
「この曲玉《まがたま》のようなのは鳩《はと》の腎臓《じんぞう》だ。この光沢のある肝臓はこれは家鴨《あひる》の生胆《いきぎも》だ。これはまるで、噛《か》み切った一片の唇《くちびる》のようで、この小さな青い卵は、これは崑崙山《こんろんざん》の翡翠《ひすい》のようで」
 すると、彼の
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