なんか一寸も恐《こわ》かないわ。もう死んだら、どんなにいいかしれないわ」
「お前も、いつの間にか豪《えら》くなったものだね。そこまで行けば、もう人間もいつ死んだって大丈夫だ」
「でも、あたしね、あなたに済まないと思うのよ。あなたを苦しめてばっかりいたんですもの。御免なさいな」
「うむ」と彼は云った。
「あたし、あなたのお心はそりゃよく分っているの。だけど、あたし、こんなに我ままを云ったのも、あたしが云うんじゃないわ。病気が云わすんだから」
「そうだ。病気だ」
「あたしね、もう遺言も何も書いてあるの。だけど、今は見せないわ。あたしの床の下にあるから、死んだら見て頂戴《ちょうだい》」
 彼は黙って了った。――事実は悲しむべきことなのだ。それに、まだ悲しむべきことを云うのは、やめて貰いたいと彼は思った。

 花壇の石の傍で、ダリヤの球根が掘り出されたまま霜に腐っていった。亀に代ってどこからか来た野の猫が、彼の空《あ》いた書斎の中をのびやかに歩き出した。妻は殆ど終日苦しさのために何も云わずに黙っていた。彼女は絶えず、水平線を狙《ねら》って海面に突出している遠くの光った岬ばかりを眺めていた。
 彼は妻の傍で、彼女に課せられた聖書を時々読み上げた。
「エホバよ、願くば忿恚《いきどおり》をもて我をせめ、烈《はげ》しき怒りをもて懲《こ》らしめたもうなかれ。エホバよ、われを憐《あわ》れみたまえ、われ萎《しぼ》み衰うなり。エホバよわれを医《いや》したまえ、わが骨わななき震う。わが霊魂《たましい》さえも甚《いた》くふるいわななく。エホバよ、かくて幾その時をへたもうや。死にありては汝《なんじ》を思い出《い》ずることもなし」
 彼は妻の啜《すす》り泣くのを聞いた。彼は聖書を読むのをやめて妻を見た。
「お前は、今何を考えていたんだね」
「あたしの骨はどこへ行くんでしょう。あたし、それが気になるの」
 ――彼女の心は、今、自分の骨を気にしている。――彼は答えることが出来なかった。
 ――もう駄目だ。
 彼は頭を垂れるように心を垂れた。すると、妻の眼から涙が一層激しく流れて来た。
「どうしたんだ」
「あたしの骨の行き場がないんだわ。あたし、どうすればいいんでしょう」
 彼は答えの代りにまた聖書を急いで読み上げた。
「神よ、願くば我を救い給え。大水ながれ来《きた》りて我たましいにまで及べり。われ立止
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング