に斬《き》りつけたくてならないように、黙って必死に頭を研《と》ぎ澄しているのを彼は感じた。
 しかし彼は、彼女の病勢を進ます彼自身の仕事と生活のことを考えねばならなかった、だが、彼は妻の看病と睡眠の不足から、だんだんと疲れて来た。彼は疲れれば疲れるほど、彼の仕事が出来なくなるのは分っていた。彼の仕事が出来なければ出来ないほど、彼の生活が困り出すのも定《きま》っていた。それにも拘《かかわ》らず、昂進《こうしん》して来る病人の費用は、彼の生活の困り出すのに比例して増して来るのは明《あきら》かなことであった。然《しか》も、なお、いかなることがあろうとも、彼がますます疲労して行くことだけは事実である。
 ――それなら俺は、どうすれば良いのか。
 ――もうここらで俺もやられたい。そうしたら、俺は、なに不足なく死んでみせる。
 彼はそう思うことも時々あった。しかし、また彼は、この生活の難局をいかにして切り抜けるか、その自分の手腕を一度はっきり見たくもあった。彼は夜中起されて妻の痛む腹を擦《さす》りながら、
「なお、憂きことの積れかし、なお憂きことの積れかし」
 と呟《つぶや》くのが癖になった。ふと彼はそう云う時、茫々《ぼうぼう》とした青い羅紗《らしゃ》の上を、撞《つ》かれた球《たま》がひとり飄々《ひょうひょう》として転がって行くのが目に浮んだ。
 ――あれは俺の玉だ、しかし、あの俺の玉を、誰がこんなに出鱈目《でたらめ》に突いたのか。
「あなた、もっと、強く擦ってよ、あなたは、どうしてそう面倒臭がりになったのでしょう。もとはそうじゃなかったわ。もっと親切に、あたしのお腹《なか》を擦って下さったわ。それだのに、この頃は、ああ痛、ああ痛」と彼女は云った。
「俺もだんだん疲れて来た。もう直ぐ、俺も参るだろう。そうしたら、二人がここで呑気《のんき》に寝転んでいようじゃないか」
 すると、彼女は急に静になって、床の下から鳴き出した虫のような憐れな声で呟いた。
「あたし、もうあなたにさんざ我ままを云ったわね。もうあたし、これでいつ死んだっていいわ。あたし満足よ。あなた、もう寝て頂戴な。あたし我慢をしているから」
 彼はそう云われると、不覚にも涙が出て来て、撫《な》でてる腹の手を休める気がしなくなった。

 庭の芝生が冬の潮風に枯れて来た。硝子戸《ガラスど》は終日|辻馬車《つじばしゃ》の扉《と
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