いう限界を、前から考えてみたが、まだ今は我国のマルキシズムさえが、外部から見れば一種の国粋主義のごとき観さえ帯びている時代である。転向して来た作家評論家の行為も何となく一番自然に無理なく見えるのも、原因はここにあるのだ。これらの人の行為は、内部からばかり見るものではなく、外部からも見なければ、自然や人間に忠実な見方とはいえないと思う。日本人の思想運用の限界が、これで一般文人に判明してしまった以上は、日本の真の意味の現実が初めて人々の面前に生じて来たのと同様であるのだから、いままであまりに考えられなかった民族について考える時機も、いよいよ来たのだと思う。私に今一番外国の文人の中で興味深く思うのは、ヴァレリイとジイドであるが、ジイドの転向に反して、ヴァレリイの動かぬのはただ単に思想実践力の両者の相違とばかりには思えない。一人は分ったから動き、一人は分ったから動かぬのか、あるいは、一人は分らぬから動き、他は分らぬから動かぬか、そのどちらかであろう。しかし、分り、分らぬとは、どこが違うか誰も定めたのではない。ただ私には、亜細亜のことは自分は知らぬから、云わないだけだと云ったヴァレリイの言葉が一番に私の胸を打つ。ところが、わが国の文人は、亜細亜のことよりヨーロッパの事の方をよく知っているのである。日本文学の伝統とは、フランス文学であり、ロシア文学だ。もうこの上、日本から日本人としての純粋小説が現れなければ、むしろ作家は筆を折るに如《し》くはあるまい。近ごろ、英国では十八世紀の通俗小説として通っていたトムジョーンズという作品が、純粋小説として英国文壇で復活して来たということだが、我国の通俗小説の中にも、念入りに験《しら》べたなら、あるいは純粋小説があるのかもしれない。このごろ私はスタンダールのパルムの僧院を贈られたので読んでいるが、これは純粋小説の見本ともいうべきものだ。この作者は「赤と黒」とを書いているとき、すでにトムジョーンズを読みつつ書いたといわれただけあって、この「パルム」も原色を多分に用いた大通俗小説である。もし日本の文壇にこの小説が現れたら、直ちに通俗小説として一蹴《いっしゅう》せられるにちがいあるまい。純文学を救うものは純文学ではなく、通俗小説を救うものも、絶対に通俗小説ではない。等しく純粋小説に向って両道から攻略して行けば、必ず結果は良くなるに定っていると思う。純粋小説の社会性と云うような問題は他に適当な人が論じられるであろうから、私は今はこれには触れないが、しかし、純粋小説は可能不可能の問題ではない。ただ作家がこれを実行するかしないかの問題だけで、それをせずにはおれぬときだと思う事が、肝腎《かんじん》だと思う。
底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
1981(昭和56)年6月〜
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2002年5月7日作成
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