これこそリアリズムだと、レッテルを張り廻《めぐら》して来たのである。勿論《もちろん》私はこれらの日常性をのみ撰択することを、悪リアリズムだとは思わないが、自己身辺の日常経験のみを書きつらねることが、何よりの真実の表現だと、素朴実在論的な考えから撰択した日常性の表現ばかりを、リアリズムとして来たのであるから、まして作中の偶然などにぶつかると、たちまちこれを通俗小説と呼ぶがごとき、感傷性さえ持つにいたったのである。けれども、これが通俗小説となると、日常性も偶然性もあったものではない。そのときに最も好都合な事件を、矢庭《やにわ》に何らの理由も必然性もなくくっつけ、変化と色彩とで読者を釣り歩いて行く感傷を用いるのであるが、しかし、何といっても、ここには自己身辺の経験事実をのみ書きつらねることはなく、いかに安手であろうと、創造がある。事、創造である限り、自己身辺の記事より高度だと、云えば云える議論の出る可能性があるのみならず、何より強みの生活の感動があるのだから、通俗小説に圧倒せられた純文学の衰亡は必然的なことだと思う。純文学の作家にして、心あるものなら、これを復興させようと努力することは、何の不思議もないのであるが、それを自身の足場の薄弱さを立て直そうともせずに、大衆文学通俗文学の撲滅《ぼくめつ》を叫んだとて、何事にもなり得ない。そこで最も文芸復興の手段として、私は純粋小説論の一端を書いたのだが、文学に於ける能動精神も、浪曼主義《ろうまんしゅぎ》も、ここから、発足しなければ、いったいいかなる能動主義の立場をとり、浪曼主義の立場を取ろうとするのか、足場がぐらぐらしていては、恐らくどのような文学主張も、水泡に帰するにちがいあるまい。しかし、文学作品を一層高度のものたらしめ、文芸復興の足場を造るためには、最早や純文学では無力であるから、これを純粋小説たらしめる努力をしなければならぬとなると、またさらに第二の難関が生じて来る。それは短篇小説《たんぺんしょうせつ》では、純粋小説は書けぬということだ。先《ま》ず一例を上げて、通俗小説の持つ何よりの武器たるところの、感動の根源をなす偶然と感傷とについて云うなら、この偶然と感傷とに、純粋小説としての高度の必然性を与えるためにさえ、中島健蔵氏の云われる表現と生活との間に潜んだ例の多くの、「深淵《しんえん》」を渡らねばならぬ。しかも、その深淵は
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