ろうと云われても、何とも返答に困る方が、真実のことである。
 それなら、いったい純粋小説とはいかなるものかということになるのだが、この難しい問題の前には、通俗小説と純文学の相違を、出来る限り明瞭《めいりょう》にしなければならぬ関所がある。人々は、この最初の関所で間誤間誤《まごまご》してしまって、ここ以上には通ろうとしないのが、現状であるが、それでは一層ややこしくなる純粋小説の説明など、手のつけようがなくなって、誰もそのまま捨ててしまい、今は手放しの形であるのは尤《もっと》もといわねばならぬ。しかし、考えてみれば、純文学の衰弱は、何と云っても純粋小説の現れないということにあるのであるから、文壇全体の眼が、純粋小説に向って開かれたら、恐らく急流のごとき勢いで純文学が発展し、真の文芸復興もそのとき初めて、完成されるにちがいないと、このように思った私は、危険とは知りつつ、その手段として、純文学にして通俗小説の意見を数行書いてみたのである。

 いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと、とこれ以外に私はまだ見ていない。しかし、偶然とは何か、感傷とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが、しかし、事がこの最初で面倒になると、必ず、そんなことは勘《かん》で分るではないかと人々はいう。少し難しい言葉を使う人は、偶然のことを、一時性といい、偶然の反対の必然性のことを、日常性といっているが、感傷となると、これこそ勘で分らなければ、分り難い。先《ま》ずあるなら、一般妥当と認められる理智《りち》の批判に耐え得られぬもの、とでも解するより今のところ仕方もない。
 
 私はこのような概念の詮索《せんさく》から始めるのは、面倒なので、通俗小説と純文学とを一つにしたもの、このものこそ今後の文学だと云ったのであるが、誤解を招いた責任は、私も持たねばならぬ。けれども、私の犯したこの冒険をせずして、純文学の概念に移ることは、容易ならぬ事業である。私はこの概念を明瞭にするためにここに罪と罰を引こう。ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小
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