「でも、高い所へはなかなか男の方は来ませんわ。」
「なるほど、君は、今日は満点だ。」
 二枚の十円札が、いきなり容子の帯の間へ突き刺さる。
「まア、もう逃げ支度をなさるのね。」
「時間だ。」
「それや、下でお涼みになる方が、湿気があつて、」
 急転直下、久慈は運動が終ると七階からエレベーターで馳け下る。彼は能子の傍へ近かづいた。彼には能子は苦手である。此の「永遠の女性」の頭だけは彼の十円紙幣で効いたためしは一度もない。それ故彼の心理学はいつも此処まで来ると狂ふのだ。彼は賭博に負けたマニヤのやうに、十円札を彼女の前へ重ねて行く。だが、能子の云ふのはかうである。
「あなた。何ぜあなたはあたしにこんなにお金を下さるの?」
「君が、受けとりさうにもないからさ。」
「ぢや、あたし、貰つておくわ。だけど、あなたは、馬鹿だわね。」
「いや、僕より、君の方が賢いのだ。」
 彼女は彼の誘惑に従つてどこへでもついて行く。だが、彼女は彼の誘惑にかかつたことは一度もない。
「あなた、なぜあなたは、あたしの心がお分りになれないの。」
「分つて了へば、それまでだ。なるだけ、君だけは、百貨店の法則から逆に進行してゐてくれ給へ。」
「さうすると、あたしにこんなにお金が出て来るの?」
「いや、それは君が金を馬鹿にしてゐる賃金さ。」
「だつて、あたしは、あなたがあたしにお金を下さることを馬鹿にしてゐるのよ。」
「それは勝手だ。だが、金を君にやるからと云つて、僕を馬鹿扱ひにするのは御免蒙る。」
「だけど、そんなことをなすつてゐると、今にあなたがお金のやうに見えて了ふわ。」
「つまり、人間に見えないと云ふんだな。」
「ええ、さう。あなたはお金よ。たつたそれだけ。」
「今度は化物扱ひにし出したな。」
「だつて、あなたは、それが本望なんですもの。あなたは人間の感能がお金でどこまで発達してゐるか、験べる機械のやうなものなのよ。ね、あたしはあなたに、どんな参考になつてゐるの?」
「君は、今の百貨店の売上高では、分らない。」
「ぢや、あたし、あなたにもつと勉強するやうにさせて上げるわ。そしてそのときになつたら、あたしあなたからお金をとつて、それをみんな、あたしと一緒に働いてゐる人達に振り撒くの。さうすると、品物の能率が上るでせう。そしたら、あなたがもつとお金をおとりになるでせう。そしたら、またあたしが沢山とつて、それを人々に振り撒いて、ね、あなたはその間にいろいろな女の方に飽くことを練習するの。今はまアあなたの過度期だから、あたしは黙つて見てゐるわ。まア、あたしは、ここ暫くはあなたの柔い監督ね。」
「うつかりすると、君は社会主義者になりさうだよ。」
「ええ、さう、あたしは、あなたん所の労働者よ。万国の労働者よ団結せよつて云ひたい方なの。だつて、あたしは、朝の八時から立ち詰めよ。あなたのやうに運動がてらに七階まで上つて行つて、一枚づつお幣《さつ》をくばつて降りて来て、それから競子さんを自動車に乗せて飛び廻ることなんか、新らしい仕事だなんて思へないわ。」
「ぢや、新らしい仕事なんて、どこにある?」
「あるわ。ここに。あなた、一枚お幣を出してごらんなさいな。」
「よし、その手は分つた。」
「あなたのお豪い所は、そこなのね。」
「何に、もう一度云つてみてくれ。」
「そら、そこ。あなたはあたしと、本当に馬が合つてゐるんだわ。あたしはあなたを、馬鹿にときどきするんだけど、かうしてゐられるのもあなたの人柄がさせるのよ。まアあなたは七階まで運動なさるだけあつて、爽やかで、闊達で、理解があつて、善良で、朗らかに光つてゐる癖に傲慢な所がちつともなくて。」
「また、一枚とられるな。」
「あなた、お止しなさいよ。そこがあなたのいけない癖よ。運動なすつたいい癖が台なしだわ。」
「だつて、あまりやつつけられちや、口止めする方が安全だよ。」
「あなたは、他の女の方にお出しになる手を、あたしにまで出さうとなさるから虐めるの。あたしがあなたからお金をいただいてゐるのは、あなたの生活をただお助けしてゐるだけよ。あなたはお金を撒くことだけが、生活なの。」
「まア、云はば、君は少し野暮臭い、と云ふ方の女だよ。僕に意見をしてくれるのはありがたいが、もう少し、僕の金の撒き方に好意を見せてくれてもいい。」
「だつて、好意の見せ場が見つからないわ。あたしが一寸愛嬌を振り撒くと、また一枚と来るんでせう。それぢや出て来る愛嬌だつて溜らないわ。あたしには、あなたがお腹で、あたしの愛嬌にお点を点けていらつしやるのが分つてゐるの。これからあたしが愛嬌を振り撒いたら、あなたを馬鹿にしてゐるときだと思つてゐて頂戴。」
 これが能子だ。久慈が金で創つた永遠の女性の頭だけは、いつまでたつても頭を横に振り続ける。久慈は能子に逢ふと世界が新鮮
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