速力は鈍るだらう。
久慈は二階へ昇つて行つた。鬱子は半襟の中で胃袋のやうに動いてゐる。彼女は久慈にとつては永遠の女性の右脚だ。その癖彼を片肩に担いだまま、片足に重役を履いて馳け廻るのも美事である。
「あら、久慈さん、お暑いのね。」
「下はここよりなほ暑い。」
「ここも暑いわ。」
「もう一寸、笑つてくれ。」
「だつて、まだ氷も飲めないの。」
久慈は十円札を握らせて三階へと登つて行く。封筒の中に、レツテルのやうに埋つてゐるのは軽い桃子。
「もう少し、暴れなければ。」
「だつて、暑いわ。」
「だつて、ハンカチ位はあるだらう。」
十円札をハンカチに包んで投げ出すと、久慈は四階へと昇つて行つた。婚礼調度品の大鯛小鯛に挟まつて、丹子は汗をかいたまま夕暮の来るのを待つてゐる。
「まア、素通りするなんて。」
「今日は人がゐないぢやないか。」
「だから、寄つたつていいぢやないの。」
「人がゐなければ、人眼に付く。」
「五階へお急ぎになるのには、悪いわね。」
「四回で疲れて了つては、意気地がない。」
丹子は女中のやうにお饒舌だ。ここで掴まると、五階の会話が短かくなる。振り切り賃を鯛の腹の下へ押し込んで、五階へと急いで行く。鳥子は金属の中に、刺つた花のやうに浮いてゐた。近よる久慈の方へ指を上げながら、
「けふは冗談を仰言らないで。」
「僕は休憩時間だよ。」
「だつて、あたしはこれからなの。」
「五階まで昇つて蹴られては、降りられない。」
「まア、もう少しあちらへ行つて、」
「これほど放れてをれば、汗もかくまい。」
「あそこで人が、みてるぢやないの。」
「ぢや、これはいくらでございます?」
「はい、それは三十五銭でございますの。」
久慈は爪切りを一丁買ふと十円紙幣を支払つた。
「お釣はお宅へ。」
六階へ昇ると、笑つた容子が鏡の中に五人もゐる。
「どちらが君だ。」
「あら、今日の巡礼はお早いのね。」
「だから、練習と云ふものは、しておくものさ。」
「道理で能子さんが、おしやべりになつたのね。」
「それや、君だ。」
「あたしがおしやべりになつたつて?」
「誰だかそんなことを云つてたよ。」
「それや、あたしが、六階あたりにゐるからよ。」
「人里はなれて暮らしてゐると、下界のことが気になるな。」
「こんな所で、お婆さんにはなりたくないわ。」
「いや、物事は、高い所から見降ろすものさ。」
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