近よって降りていったが暫くすると水を沢山飲んだのであろう、急に元気になって大声で下から水だ水だと叫び出した。私も小さな声で同時に水だ水だと叫んだ。
それでもう一同は助かったと同様であった。小屋の中の者は足が動かないのにかかわらず我れ勝ちにと腹這いになって崖の方へ降りて来ると、蜘蛛の巣をいっぱいつけた蒼然とした顔を月の中に晒しながら変る変る岩の間へ鼻を押しつけた。岩の匂いに満ちた清水が五百羅漢のような一同の咽喉から腹から足さきまで突き刺さるように滲み透って生気がはじめて動き出して来ると、私も皆と一緒に月に向ってこれこそ明瞭に生きていることだと感じるかのように歎声を洩してはまた岩の間へ口をつけた。しかし、私はふと皆が置き去りにして来た病人のことを思うともうひょっとするとひとり眠入ってしまって死んでいるのではないかと思われて、皆の者にどうかしていっぱいでも病人に水を飲ましてやる工夫はないかというと、そうだそうだ病人が何よりだということになってそれなら水を入れるには帽子が良いからという高木の発案でソフトに水を受けてみると、水は数歩ももじもじしている間にすっかり洩れてしまって何の役にも立ちはしない。それで今度は皆の帽子を五つ合して水を受けるとやっとどうやら洩れないだけは洩れなくなったが小屋まで持っていく迄には疑いなく無くなるのは決っているのだ。そんなら小屋まで一番早く帽子を運ぶには十一人でリレーのように継ぎながら運ぼうではないかと佐佐がいい出すと、それは一番名案だということになっていよいよ十一人が三間ほどの間隔に分れて月の中に立ち停ると、私は最後に病人の所へ水を運ぶ番となって帽子の廻って来るのを待っていた。その間私は絶えず病人を揺り続けているのだが、もう彼女はさっきから殴り続けられた指跡を赤く皮膚に残したまま、私に揺られるがままに身体をぐたぐた崩して寝入ってしまってなかなか眼を醒しそうにもない。それで私は彼女の髪の毛を持ってぐさぐさ揺るとぼんやり眼を開けたは開けたが、それもただ開けたというだけで同じ所をじっと眼を据えて見ているだけである。そこへ丁度最初の帽子が殆ど水をなくして廻って来たので私は病人の口のなかへ僅に洩れる滴をちょろちょろと流し込んでやると、病人も初めてはっきり眼が醒めたと見え、私の膝に手をかけて小屋の中を見廻した。水だ水だ早く飲まぬとなくなるからといってはまた膝の上へ病人を伏せて次の帽子を待っている。すると、また帽子が廻って来る、また滴を落すという風に幾回も繰り返しているうちに、私には遠く清水の傍からつぎつぎに掛け声かけながらせっせと急な崖を攀じ登って来る疲れた羅漢達の月に照らされた姿が浮んで来ると、まるで月光の滴りでも落してやるかのように病人の口の中へその水の滴を落してやった。
入力者注
・「時間」は、昭和六(1931)年四月『中央公論』に発表。同年四月白水社『機械』に初収。
・河出書房新社『定本 横光利一全集 第四巻』(昭和五十六年刊)を底本とした。
・旧かなづかいは現代かなづかいに、旧字体は新字体に改めた。
・「茫茫」など漢字の繰り返しは「茫々」などと改めた(「佐佐」は除く)。
・以下の漢字はひらがなに改めた。
云う→いう、此の→この、了う→しまう、恰も→あたかも
テキスト入力者:佐藤和人
校正者:かとうかおり
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