かない。その周囲で女達は自分が死んだら髪を切って母親のところへ送ってくれるよう、もうとてもこれ以上は身体が保たないといい出すものがあるかと思うと、自分ももう駄目だから死んだら親指を切って郷里へ送ってくれとか眼鏡を送れとか、そんなことをいってるうちに膝がしびれる腰がしびれるやがて首まで痛んで来ると、栗木が急にしくしく泣き出して、自分が若いときに村の神さまへ石を投げつけたことがあるその罰が来たんだといい出した。すると高木は俺はあんまり女を瞞しすぎた罰が来たんだというと、それには皆も胸を刺されたのであろう男も女もそうだそうだというかのように調子を合せて泣き出した。私もあんまり皆の他愛のないのにおかしくなったが餓えと寒さと身体の痛みにはもう実際このままでは死ぬ以外にないのではないかとさえ思われて、私だけは臼の傍だったので木の上へ腰かけながらさてこのつぎに来るものはいったい何なのかと思っていると、よくしたもので間もなく意識を奪ってくれる眠けがしきりにやって来た。それと等しく一団の上からもいつの間にか今までの慄えがなくなっているのに気がつくと、これはこのまま眠らせてしまえば死んでしまうに決っているのだから私は声を大きくして皆の頭を揺すぶって叩き起し、今眠れば死ぬにちがいないことを説明し眠る者があったら直ぐ、その場で殴るようといい渡した。ところが意識を奪う不思議なものとの闘いには武器としてもやがて奪われるその意識をもって闘うより方法がないのだから、これほど難事《むずか》しいことはない、といってるうちにもう私さえ眠くなってうつらうつらとしながらいったい眠りという奴は何物であろうと考えたり、これはもう間もなく俺も眠りそうだと思ったり、そうかと思うとはッと何ものとも知れず私の意識を奪おうとするそ奴の胸もとを突きのけて起き上らせてくれたりするところの、もう一層不可思議なものと対面したり、そんなにも頻繁な生と死との間の往復の中で私は曽て感じた事もない物柔かな時間を感じながら、なおひとしきりそのもう一つ先きまで進んでいって意識の消える瞬間の時間をこっそり見たいものだと思ったりしていると、また思わずはッと眼を醒して自分の周囲を見廻した。すると、私の前では誰も彼も頭を垂らして眠りかけているのである。
私は皆の頭を暴力を振うように殴って廻って起きろ起きろと警告した。皆の者は殴られると暫くぼんやりして眼を開けてはいるがそのまままたふらふらと隣りの者へよりかかってしまう者や、急に死に迫っていた目前の自分の危機に気がついて眼をぱちぱちしながらびっくりしている者や、私に殴られて眠ったものを殴る権利を与えられていることを思ってはいきなり前の眠っているものを殴りつけ出す者などがあって、間もなく羽根の停った水車《みずぐるま》の傍では盛んな殴り合いが始められた。それでも眠りはほんの少しの静まった隙間から這い込んで来て意識を吸い取っていってしまうので、間断なく髪の毛をひっつかんで頭を引き摺り上げては頬っぺたを指の跡の残るほどひっぱたいたり、拳骨でそれこそ鉄拳を食わせるほど殴りつけたりしても、眠りを防害する動作がものの一二分も一致して休止すると、もう危く一同が死へ向って落ち込んでいくので、私も絶えず殴り続けているものの同時に十一人の動作を見詰めつづけている間にはふっとどうしたものやらまた私の意識も極りなき快楽の中へ溶け込んでいってうつらうつらと漂い出すのだ。快楽――まことに死の前の快楽ほど奥床しくも華かで玲瓏としているものはないであろう。まるで心は水々しい果汁を舐めるがように感極まってむせび出すのだから、われを忘れるなどという物優しいものではない。天空のように快活な気体の中で油然と入れ変り立ち変り現れる色彩の波はあれはいったい生と死の間の何物なのであろう。あれこそはまだ人々の誰もが見たこともない時間という恐るべき怪物の面貌ではないのであろうか。――しかし、私は私が死んでしまってなくなれば同時に誰も彼もの全世界の人間が私と一緒に消えてなくなってしまうのだと思うと愉快であった。ひとつみんなの人間を殺してやろうか、とふと思うこの死との戯れがときどき私を誘惑してひと思いに眠ってしまおうと思うに拘わらず、またいつの間にか私の前で皆が眠り出すと私は両手で所かまわず殴りつけているのである。人を死なすまいと努力すること――この有害なことが何故に人々にとって有益なのであろうか。私達は譬えいま死から逃れることが出来たにしたってこの次死ぬときにはこんなに巧妙に何の不安もなく楽々死ぬことなんかは最早や想像することが出来ないのだが、それでも矢っ張り私はもう一度皆を生かせてやりたいと思うと見えて、しきりに女達の鬢をもって引き摺ったり、殴ったり、片足で男達を蹴りつけたりし続けているのは、これをこそ愛とい
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