のだと分ると、一同もぼんやりとしてしまってこれには困ったという風に雨の中で溜息をつき出した。そこで私は男には分らぬそんな女の症状のことは女達に任かせようというと、それでは今直ぐに乾いた布が何より入用だというので仕方がないから白い襦袢を脱いで渡してまた進んだ。病人は気の毒がって次ぎに背負い変った松木の背中の上で自分をもうここへ捨てておいていってくれとしきりに泣いていう。そんなに泣いてはやかましいからもう捨てていってしまうぞと松木が嚇かすと、一層激しくわッと泣くばかりである。しかし、そんなことよりも何より追手のことをあまり考えなくなると今度は一団に空腹がやって来た。一人が明日になって町へ着いたらだい一番にかつれつを食べるんだというと、一人は鮨を食べるという。いや鮨よりも鰻が良いという者があるかと思うと牛肉が食べたいというものがある。すると、それからそれへと他人のいうことなんか訊かずに何が美味かったとかどこで何を食べたとか食べ物の話ばかりが盛んになって、ますますがつがつした動物のようになっていった。

 ところが私もこの空腹にだけは皆と同様困り果てて道傍の畑からでも食物を探そうとしたのであるが、竹林を出てから暫くすると畑なんかは一つもなく、右手は岩ばかりの崖で左手は数百尺の断崖の下でただ波の音がしているだけなのだからどうするわけにもいかないのだ。せめても巾四尺ほどの道から足を踏み外さないだけが一団の儲けもので、今は互に帯を後ろから持ち合ったままひょろひょろして先頭の傘のまにまについていくのであるが、坂を上ったり下ったりうねうねとした道なのでときどき雨がさっと逆さまに下から降って来て、思わず崖の縁へぺったり貼りつけられたように重なったり、伸びたり縮んだり衝きあたったりしながらも茫々と続いた断崖の上を揺れ続けていくのだから、そう食べ物の話ばかりに眼もくらんではいられないのである。そのうちに食べ物の話に夢中になっていた一団のものもいくら饒舌ったって一つも食べられないのに気がついたらしく、一人黙り二人黙り、やがてみんなが黙ってしまうと、ただ病人を背負って歩く足数をその後で数える女の声だけが波の音と風の音との断れ目から聞えて来るだけで、溜息も洩れなければ咳の声さえしなくなって、みな誰も彼も一様にこれはもう暫くたてばどんなになるのかと恐怖に迫られ出した沈黙が、手にとるようにはっきりと感じられて来た。そうこうしているうちにまた病人の出血が激しくなって、男達の脱いだ襦袢を崖の頂きで海に向って取り替えるやら背負う番を変えるやら、前のように気の毒がって激しく泣き出す病人の声と一緒にひと際一団のものが賑やかに立ち返ると、また食べ物の話が出る。そんなに食べ物の話をしては食べたくなるばかりだからやめてくれというものがあると、いやもうせめて食べ物の話でもしてくれなければ食べた気がしないというものがあり、水でも良いから飲めないものかといいながら傘から滴り落ちる雨の滴を舐め出したり、小さな松の木でもあると松の葉をむしって食べながら歩いたり、まるで餓鬼そのままの姿となってしまって笑うにも笑えない。私も私で着物はもう余すところなくびっしょり濡れたうえに咽喉《のど》がからからになって来て、雨が吹きつけて来ると却って傘から顔を脱して雨に向って口を開けたり松葉を噛んだりし続けた。それがまた八人の男が一巡病人を背負ってしまって私の番が廻ってくると、どんなに背中の上のものを女だと思おうとしたって、その空腹では歩く力だけでもやっとのことだ。息切れがして来ると眼の前がもうぼうっとかすんで来る。腕がしびれる。足がふらりふらりと中風のように泳ぎ出す。すると舌を噛んだり頭を前の傘持ちにぶっつけたりし続ける。後ろで女が九十近くまで数えて来る頃にはもう病人をそのままそこへどたりと抛り落したくなって来て、それを感づかせてはまた泣かれるからじっと我慢をしているものの、終いには眼がひき吊ってしまって開けるとぱっちり音がしそうなほどになる。そうして漸く次のものに変って貰ったとしても一人一丁で八丁目毎にまた廻って来るのだから、休む間が知れているのだ。お負けに空腹は時間がたてばたつほど増して来て、それに従って背中の上の病人はそれだけ重くなっていくのだからやりきれたものではない。すると、病人は真中に皆に挟まれていくのはいやだから真先にやってくれと無理をいい出した。それでは負われているものは捨てていかれる心配がなくなるから気楽にはなるであろうが、反対に背負っていくものは絶えず後から圧迫されて疲れることが甚だしいのだ。私は皆のものも私が病人を連れ出して来たばっかりにこんなに苦しまされたのだと思うと、もう皆がどうする事も出来なくなってへたばりそうになったら私は病人を海の中へ抛り込むか病人と二人でそのままそこへ残
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