って皆に先きへいって貰おうと考えた。

 しかし、皆のもののへたばりそうにしているのはもういま現在のことなんだから、そんな考えを起したって無論何んにもなりはしないのだ。もう一団の者は油汗を顔ににじませて青黒く、眼はぎろりと坐り出し、なま欠伸がひっ続けて出始めると突如として奇声を発するものもあって、雨風に吹き折られるかのようにどっと突角った岩の上へ崩れかけたりすると、病人はまた捨てていってくれといって泣き上げる。女達は女達でもう髪から着物からびしょびしょで、幽霊みたいにべったりと濡れた髪を顔へひっつけさせたまま歩いているのだが、腰巻の色が下から着物へまで滲み出て来て、コンパクトや財布へまで水が溜ってぬらぬらして来ると、もうどっしりと却って落ちつき出して早く死ぬものなら一思いに死んでしまいたいと菊江がいう。じゃここから飛び込めばわけはないと八木がいうと、その一言の冗談がもうへとへとになっていた栗木の癇に触ったのであろう、人の苦しんでいるときに冗談をいうとは何事だと栗木は八木に詰めよった。すると、八木は八木でそんな思わぬことで詰めよられたんだからびくりとしたのか、逆に立ち直って、いくら菊江に冗談をいったからってそんなことで怒らなくとも良いだろう。菊江なんかはお前がいくら好いたってもう駄目でちゃんと高木と一緒になっているところを自分は見たのだとつい口を辷らすと、いままで黙々として何一ついわなかった温和な佐佐が、いきなり懐中からナイフを出して高木めがけて突っかかった。高木は素早く佐佐のナイフの先からのがれて一目散に断崖の上を逃げていったが、佐佐もしつこく傾きながら彼の後から追っかけると、暫くこの思わぬ出来事にぼんやりしていた栗木が敵は八木ではなく高木と佐佐だと知ったのかこれもまた二人の後から追っ馳け出した。菊江は私の傍で闇の中を透しながらただ自分が悪いのだといって泣きじゃくっているだけなので、私は早くいって男達の争いをとめて来いというとあなたがいってくれなければ自分ではとまらぬという。ところが、これもまたあまり不意の出来事だが私の後ろにいた品子が急に泣いている菊江の襟もとへ武者振りついて歯をきりきり鳴らせ出した。自分の男の誰かをとられていたのに初めて気附いたのであろうが、そのうちに張本人の八木までが怒り出して今度は品子を引き摺り倒すと貴様の男は誰だといい始めたのには私も驚いた
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