留守をしてゐてくれたHが、北川冬彦氏の来訪を話しながら、「いろいろ戦災の話を人から聞いたが北川氏が一番ひどい目にあってゐる」と語って、猛火の底の氏の死闘のさまを髣髴させた。それから半年、ある詩の雑誌が私の手元に届いた。拓くと中に北川氏の「渡船場附近」という短篇が見えてゐる。一読して、私は終戦以来眼にした最も佳い作品の一つだと思った。太く一気に吐いた呼吸のその見事さ、厚朴醇美の貴格ある整正。次に一年してから、この花電車の詩の草稿が私の手に届けられた。
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アンリ・ルッソオの絵を見ると
その場で
固い心もなごやかになり頬も思わずほころびてしまう
こんな平和をたゝえている絵はめずらしい
こんな平和の気分をまき散らしている絵はない
底なしの平和郷だ(平和郷)
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ルッソオはまたここへも出て来たのである。猛火の底をかい潜って出て来たこのルッソオは、花電車に乗ってゐるのだ。ちんちんちんと鳴って来るのは、何の音か。頓風おのづから起って消えていくところを見てゐると、
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「あの電車ウソ電車ね 乗れないんだもの」三歳のわが子が口走った(花電車)
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なるほどまだ誰も花電車にだけは乗ったものはないだらう。渡船場で、人を轢き殺して来た大群集のまん中を通るのは、かういう妙音でなければ渡れない。誰の前にも橋のない河は流れてゐる。三途の河が。望む平和郷は乗れないウソ電車の中にあるだけか。乗れ乗れ、介意ふこたアない、とこの運転手北川冬彦は言ってゐる。
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そら、動くぞ。ちんちんちん。
レールの間の夏草どもは刎ね起きる。
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底本:「日本の名随筆23 画」作品社
1984(昭和59)年9月25日第1刷発行
1991(平成3)年10月20日第12刷発行
底本の親本:「現代日本詩人全集 第八巻」創元社
1954(昭和29)年1月発行
※北川冬彦詩集「花電車」に寄せられた文章です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※促音が小書きされているのは底本通りです。
入力:加藤恭子
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年5月4日作成
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