と幸子は意味の通じぬことを口走って上機嫌になる。彼がへとへとになって仰向きに倒れて、「アーア。」というと、彼女も同じように彼の横へ寝転んで、「アー。」という。しかし彼が少しでも手を触れると直ぐ泣き顔をして口をとがらして起き上る。
 「御身よ、御身よ。」彼はただそういって見ているより仕方がなかった。
 彼は姉の家を去る時、もう此処《ここ》へは帰るまいと思った。

     十四

 しかし、次の夏またやはり彼は姉の処へ帰ってしまった。彼が姉の家へ着いた時誰もいなかったので、一人茶の間に寝転んで本を見ていた。暫《しば》くすると姉が帰って来て、幸子を背から下ろした。
 彼はいきなり[#「いきなり」に傍点]幸福を感じた。
 「そうら、あれ、誰あれ?」と姉はいって彼を指差した。
 幸子は顔を顰《しか》めて、彼を見ながらだんだん後へ退《さが》ってゆくと、上《あが》り框《かまち》から落ちかけようとして手を拡げた。
 「危《あぶな》い。」とおりかはいって幸子を受けた。
 「知らんのかお前、あれ叔父ちゃんえ。」
 幸子はおりかの肩へ手を置いてやはり彼を眺めていた。
 「お前忘れんぼやな、あれ叔父ちゃん。」
 「叔父《おい》ちゃん。」と幸子は真似た。
 彼は何ぜだか羞《はずか》しい気がした。黙って笑っていると、幸子はくるりと向うをむいて母親の襟《えり》の間へ顔を擦《す》り寄《よ》せた。

     十五

 彼は自分の幸子に対する愛情の種類を時々考えて、
 「俺は恋をしてるんだ。」とまじめに思うことがあった。
 彼のせめてもの望みは、幸子を一度、ただの一度でいいしっかりと抱いてやる、そして、彼女はぴったりと彼に抱かれることだった。更にそれ以上の慾をいえば、いつでも彼の欲する時に彼女が彼に抱かれることだった。実際彼はこのことに苦しめられた。しかし、彼の受けた愛の報酬もやはり前の夏の休暇と同じように冷《つめ》たいものであった。彼は幸子を憎く感じる日がだんだん増して来た。
 「幸子はなぜ俺に抱かれないのだろう。」
 と彼は姉に訊《たず》ねた時、姉は、
 「お前あらっぽいからや。」とひと口でいった。
 しかしそんなことではなさそうだった。が、幸子は彼以外の男にはそう親しみのない者にでも温和《おとな》しく自分を抱かせる所から見ると、あるいはそうであるかもしれないとも思った。とにかく幸子の一番嫌いな者はこの叔父であるらしかった。そして、叔父の一番好きな者は幸子であった。
 「俺はもう幸《ゆき》の守《もり》はこりこりだぞ。俺が傍にいるからと思って安心されると困るよ。殊に俺のような男は信用されればされるほどお人好しになるからな。だけどもう知らないぞ、うるさい。」
 こんな前置きをいっておいてもやはりおりかは彼を信用して仕事をした。信用されると彼もその気で愚痴《ぐち》をいいながら幸子の守をした。そして、彼女に触《さわ》らないようにと欲望を耐えて、いろいろ顔を歪めたり逆立ちをしたりして、幸子を笑わそうと自分の自尊心を傷つけた。彼女が笑うと、彼はいよいよ乗り気になって赤い顔をしながら本気に犬の真似をしたり、坂道を昇る自転車乗りのペタルを踏む真似をしたりしてはしゃいだ。が、途中で急に彼は不気嫌になって黙ってしまった。すると、幸子はひとり首を振り振りペタルを踏む真似をして、「チンチンチン。」といいながら室《へや》の中を馳け廻った。彼女にとっては、この叔父さんは全く壁に等しい代物《しろもの》であるらしかった。
 「今に見ろ。」そう彼は幸子を見て独《ひと》り言《ごと》をいった。



底本:岩波文庫「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷
   1997(平成9)年5月15日第23刷
入力:大野晋
校正:しず
1999年7月9日公開
2000年4月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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