に増して来た。ある市役所からその全町のネームプレート五万枚を十日の間にせよといって来たので喜んだのは主婦だが私たちはそのため殆ど夜さえ眠れなくなるのは分っているのだ。それで主人は同業の友人の製作所から手のすいた職人を一人借りて来て私たちの中へ混えながら仕事を始めることにした。初めの間は私たちは何の気もなくただ仕事の量に圧倒されてしまって働いていたのだが、そのうちに新しく這入って来た職人の屋敷という男の様子が何となく私の注意をひき始めた。無器用な手つきといい人を見るときの鋭い眼つきといい職人らしくはしているがこれは職人ではなくてもしかしたら製作所の秘密を盗みに来た廻し者ではないかと思ったのだ。しかし、そんなことを口にでも出して饒舌《しゃべ》ったら軽部は屋敷をどんな目に逢わすかしれないので暫く黙って彼の様子を見ていることにしていると、屋敷の注意はいつも軽部の槽《バット》の揺り方にそそがれているのを私は発見した。屋敷の仕事は真鍮の地金をカセイソーダの溶液中に入れて軽部のすませて来た塩化鉄の腐蝕薬と一緒にそのとき用いたニスやグリューを洗い落す役目なのだが、軽部の仕事の部分はここの製作所の二番目
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