細君の締りがたとい悪評を立てたとしたところでそんなにも好人物の主人が細君に縛られて小さく忍んでいる様子というものはまた自然に滑稽な風味があって喜ばれ勝ちなものでもあり、その細君の睨みの留守に脱兎のごとく脱け出してはすっかり金銭を振り撒いて帰って来る男というのもこれまた一層の人気を立てる材料になるばかりなのだ。
 そんな風に考えるとこの家の中心は矢張り細君にもなく私や軽部にもない自ら主人にあるといわねばならなくなって来て私の傭人根性が丸出しになり出すのだが、どこから見たって主人が私には好きなんだから仕様がない。実際私の家の主人はせいぜい五つになった男の子をそのまま四十に持って来た所を想像すると浮んで来る。私たちはそんな男を思うと全く馬鹿馬鹿しくて軽蔑したくなりそうなものにも拘らずそれが見ていて軽蔑出来ぬというのも、つまりはあんまり自分のいつの間にか成長して来た年齢の醜さが逆に鮮かに浮んで来てその自身の姿に打たれるからだ。こんな自分への反射は私に限らず軽部にだって常に同じ作用をしていたと見えて、後で気附いたことだが、軽部が私への反感も所詮はこの主人を守ろうとする軽部の善良な心の部分の働きからであったのだ。私がここの家から放れがたなく感じるのも主人のそのこの上もない善良さからであり、軽部が私の頭の上から金槌を落したりするのも主人のその善良さのためだとすると、善良なんていうことは昔から案外良い働きをして来なかったにちがいない。
 さてその日主人と私は地金を買いにいって戻って来るとその途中主人は私に今日はこういう話があったといっていうには自分の家の赤色プレートの製法を五万円で売ってくれというのだが売って良いものかどうだろうかと訊くので、私もそれには答えられずに黙っていると赤色プレートもいつまでも誰れにも考案されないものならともかくもう仲間達が必死にこっそり研究しているので製法を売るなら今の中だという。それもそうだろうと思っても主人の長い苦心の結果の研究を私がとやかくいう権利もなしそうかといって主人ひとりに任しておいては主人はいつの間にか細君のいうままになりそうだし、細君というものはまた目さきのことだけより考えないに決っているのを思うと私もどうかして主人のためになるようにとそればかりがそれからの不思議に私の興味の中心になって来た。家にいても家の中の動きや物品が尽く私の整理を待たねばならぬかのように映り出して来て軽部までがまるで私の家来のように見えて来たのは良いとしても、暇さえあれば覚えて来た弁士の声色ばかり唸っている彼の様子までがうるさくなった。しかし、それから間もなく反対に軽部の眼がまた激しく私の動作に敏感になって来て仕事場にいるときは殆ど私から眼を放さなくなったのを感じ出した。思うに軽部は主人の仕事の最近の経過や赤色プレートの特許権に関する話を主婦から聞かされたにちがいないのだが、主婦まで軽部に私を監視せよといいつけたのかどうかは私には分らなかった。しかし、私までが主婦や軽部がいまにもしかするとこっそり主人の仕事の秘密を盗み出して売るのではないかと思われて幾分の監視さえする気持ちになったところから見てさえも、主婦や軽部が私を同様に疑う気持ちはそんなに誤魔化していられるものではない。そこで私もそれらの疑いを抱く視線に見られると不快は不快でも何となく面白くひとつどうすることか図々しくこちらも逆に監視を続けてやろうという気になって来て困り出した。丁度そういうときまた主人は私に主人の続けている新しい研究の話をしていうには、自分は地金を塩化鉄で腐蝕させずにそのまま黒色を出す方法を長らく研究しているのだがいまだに思わしくいかないのでお前も暇なとき自分と一緒にやってみてくれないかというのである。私はいかに主人がお人好しだからといってそんな重大なことを他人に洩して良いものであろうかどうかと思いながらも、全く私が根から信用されたこのことに対しては感謝をせずにはおれないのだ。いったい人というものは信用されてしまったらもうこちらの負けで、だから主人はいつでも周囲の者に勝ち続けているのであろうと一度は思ってみても、そう主人のように底抜けな馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこがつまりは主人の豪いという理由になるのであろうと思って私も主人の研究の手助けなら出来るだけのことはさせて貰いたいと心底から礼を述べたのだが、人に心底から礼を述べさせるということを一度でもしてみたいと思うようになったのもそのときからだ。だが、私の主人は他人にどうこうされようなどとそんなけちな考えなどはないのだからまた一層私の頭を下げさせるのだ。つまり私は暗示にかかった信徒みたいに主人の肉体から出て来る光りに射抜かれてしまったわけだ。奇蹟などというものは向うが奇蹟を行うのではなく自身の醜
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