きほどはっきりと自分を持てあましたことはない。まるで心は肉体と一緒にぴったりとくっついたまま存在とはよくも名付けたと思えるほど心がただ黙々と身体の大きさに従って存在しているだけなのだ。暫くして私はそのまま暗室へ這入ると仕かけておいた着色用のビスムチルを沈澱さすため、試験管をとってクロム酸加里を焼き始めたのだが軽部にとってはそれがまたいけなかったのだ。私が自由に暗室へ這入るということがすでに軽部の怨みを買った原因だったのにさんざん彼を怒らせた揚げ句の果に直ぐまた私が暗室へ這入ったのだから彼の逆上したのももっともなことである。彼は暗室のドアを開けると私の首を持ったまま引き摺り出して床の上へ投げつけた。私は投げつけられたようにして殆ど自分から倒れる気持ちで倒れたのだが、私のようなものを困らせるのには全くそのように暴力だけよりないのであろう。軽部は私が試験管の中のクロム酸加里がこぼれたかどうかと見ている間、どうしたものか一度|周章《あわ》てて部屋の中を駈け廻ってそれからまた私の前へ戻って来ると、駈け廻ったことが何の役にもたたなかったと見えてただ彼は私を睨みつけているだけなのである。しかしもし私が少しでも動けば彼は手持ち無沙汰のため私を蹴りつけるにちがいないと思ったので私はそのままいつまでも倒れていたのだが、切迫したいくらかの時間でもいったい自分は何をしているのだと思ったが最後もうぼんやりと間の脱けてしまうもので、ましてこちらは相手を一度思うさま怒らさねば駄目だと思っているときとてもう相手もすっかり気の向くまで怒ってしまった頃であろうと思うとつい私も落ちついてやれやれという気になり、どれほど軽部の奴がさきから暴れたのかと思ってあたりを見廻すと一番ひどく暴《あら》されているのは私の顔でカルシウムがざらざらしたまま唇から耳へまで這入っているのに気がついた。が、さて私はいつ起き上って良いものかそれが分らぬ。私は断裁機からこぼれて私の鼻の先にうず高く積み上っているアルミニュームの輝いた断面を眺めながらよくまア三日の間にこれだけの仕事が自分に出来たと驚いた。それで軽部にもうつまらぬ争いはやめて早くニュームにザボンを塗ろうではないかというと、軽部はもうそんな仕事はしたくはないのだ、それよりお前の顔を磨いてやろうといって横たわっている私の顔をアルミニュームの切片で埋め出し、その上から私の頭を洗うように揺り続けるのだが、街に並んだ家々の戸口に番号をつけて貼りつけられたあの小さなネームプレートの山で磨かれている自分の顔を想像すると、所詮は何が恐ろしいといって暴力ほど恐るべきものはないと思った。ニュームの角が揺れる度に顔面の皺や窪んだ骨に刺さってちくちくするだけではない。乾いたばかりの漆が顔にへばりついたまま放れないのだからやがて顔も膨れ上るにちがいないのだ。私ももうそれだけの暴力を黙って受けておれば軽部への義務も果したように思ったので起き上るとまた暗室の中へ這入ろうとした。すると軽部はまた私のその腕をもって背中へ捻じ上げ、窓の傍まで押して来ると私の頭を窓硝子へぶちあてながら顔をガラスの突片で切ろうとした。もうやめるであろうと思っているのに予想とは反対にそんな風にいつまでも追って来られると、今度はこの暴力がいつまで続くのであろうかと思い出していくものだ。しかしそうなればこちらもたとえ悪いとは思っても謝罪する気なんかはなくなるばかりでいままで隙があれば仲直りをしようと思っていた表情さえますます苦々しくふくれて来て更に次の暴力を誘う動因を作り出すだけとなった。が、実は軽部ももう怒る気はそんなになくただ仕方がないので怒っているだけだということは分っているのだ。それで私は軽部が私を窓の傍から劇薬の這入っている腐蝕用のバットの傍まで連れていくと、急に軽部の方へ向き返って、君は私をそんなに虐《いじ》めるのは君の勝手だが私がいままで暗室の中でしていた実験は他人のまだしたことのない実験なので、もし成功すれば主人がどれほど利益を得るかしれないのだ。君はそれも私にさせないばかりか苦心の末に作ったビスムチルの溶液までこぼしてしまったではないか、拾え、というと軽部はそれなら何ぜ自分にもそれを一緒にさせないのだという。させるもさせないもないだいたい化学方程式さえ読めない者に実験を手伝わせたって邪魔になるだけなのだが、そんなこともいえないので少しいやみだと思ったが暗室へ連れていって化学方程式を細く書いたノートを見せて説明し、これらの数字に従って元素を組み合せてはやり直してばかりいる仕事が君に面白いならこれから毎日でも私に変ってして貰おうというと、軽部は初めてそれから私に負け始めた。
 軽部との争いも当分の間は起らなくなって私もいくらか前よりいやすくなると暫くして、仕事が急激に軽部と私
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