のはそのときの何よりの私の収穫であったであろう。それにしても軽部がそんなにうまく秘密を饒舌ったのも彼のそのときの調子に乗った慢心だけではない、確に彼にそんなにも饒舌らせた屋敷の風※[#「たてぼう」に三、第3水準1−14−6、364−11]《ふうぼう》が軽部の心をそのとき浮き上らせてしまったのにちがいないのだ。屋敷の眼光は鋭いがそれが柔ぐと相手の心を分裂させてしまう不思議な魅力を持っているのである。その彼の魅力は絶えず私へも言葉をいう度に迫って来るのだが何にせよ私はあまりに急がしくて朝早くから瓦斯で熱した真鍮へ漆を塗りつけては乾かしたり重クロムサンアンモニアで塗りつめた金属板を日光に曝して感光させたりアニリンをかけてみたり、その他バーニングから炭とぎからアモアピカルから断裁までくるくる廻ってし続けねばならぬので屋敷の魅力も何もあったものではないのである。すると五日目頃の夜中になってふと私が眼を醒すとまだ夜業を続けていた筈の屋敷が暗室から出て来て主婦の部屋の方へ這入っていった。今頃主婦の部屋へ何の用があるのであろうと思っているうちに惜しいことにはもう私は仕事の疲れで眠ってしまった。翌朝また眼を醒すと私に浮んで来た第一のことは昨夜の屋敷の様子であった。しかし、困ったことには考えているうちにそれは私の夢であったのか現実であったのか全く分らなくなって来たことだ。疲れているときには今までとてもときどき私にはそんなことがあったのでなおこの度の屋敷のことも私の夢かもしれないと思えるのだ。しかし、屋敷が暗室へ這入った理由は想像出来なくはないが主婦の部屋へ這入っていった彼の理由は私には分らない。まさか屋敷と主婦とが私たちには分らぬ深い所で前から交渉を持ち続けていたとは思えないのだしこれは夢だと思っている方が確実であろうと思っていると、その日の正午になって不意に主人が細君に昨夜何か変ったことがなかったかと笑いながら訊ね出した。すると細君は、お金をとったのはあなただぐらいのことはいくら寝坊の私だって知っているのだ。盗《と》るのならもっと上手にとって貰いたいと澄ましていうと主人は一層大きな声で面白そうに笑い続けた。それでは昨夜主婦の部屋へ這入っていったのは屋敷ではなく主人だったのかと気がついたのだがいくらいつも金銭を持たされないからといって夜中自分の細君の枕もとの財布を狙って忍び込む主人も主
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