は金を持っておりましたが、連れ合いの葬式が十八円もかかりましてもう一文もございません。どうぞ此のタワシをお買い下さいませ。宿料を一晩に三十八銭もとられますので、それだけ戴けないとどうすることも出来ません。どうぞ一つこれをお買いなすって下さいませ。」
 彼はその十銭の金を老婆の乾いた手に握らせて外へ出て行った。彼は青い丘の草の中へ坐りに行くのである。
「生活とは、」――
 彼は何事を考えても頭が痛むのだ。彼は黙って了った。彼は晴れた通りへ立った。街は彼を中心にして展開した。その街角には靴屋があった。靴屋の娘は靴の中で黙っていた。その横は幾何学的な時計屋だ。無数の稜の時計の中で、動いている時計は三時であった。彼は女学校の前で立ち停った。華やかな処女の波が校門から彼を眼がけて溢れ出した。彼は急流に洗われた杭のように突き立って眺めていた。処女の波は彼の胸の前で二つに割れると、揺らめく花園のように駘蕩《たいとう》として流れていった。



底本:「愛の挨拶・馬車・純粋小説論」講談社文芸文庫、講談社
   1993(平成5)年5月10日第1刷発行
   1999(平成11)年5月12日第3刷発行
入力:栗田聡史
校正:土屋隆
2004年6月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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