に詰め込まれて贈られた。時には磨かれたシルクハットが、時には鳥のようなフロックが。しかし、彼は何事も考えはしなかった。
 彼は南方の狭い谷底のような街を見下ろした。そこでは吐き出された炭酸|瓦斯《ガス》が気圧を造り、塵埃を吹き込む東風とチブスと工廠《こうしょう》の煙ばかりが自由であった。そこには植物がなかった。集るものは瓦と黴菌《ばいきん》と空壜と、市場の売れ残った品物と労働者と売春婦と鼠とだ。
「俺は何事を考えねばならぬのか。」と彼は考えた。
 彼は十銭の金が欲しいのだ。それさえあれば、彼は一日何事も考えなくて済むのである。考えなければ彼の病は癒るのだ。動けば彼の腹は空き始めた。腹が空けば一日十銭では不足である。そこで、彼は蒼ざめた顔をして保護色を求める虫のように、一日丘の青草の中へ坐っていた。日が暮れかかると彼は丘を降りて街の中へ這入って行った。時には彼は工廠の門から疲労の風のように雪崩れて来る青黒い職工達の群れに包まれて押し流された。彼らは長蛇を造って連らなって来るにも拘らず、葬列のように俯向いて静々と低い街の中を流れていった。
 時々彼は空腹な彼らの一団に包まれたままこっそりと肉飯屋へ入った。そこの調理場では、皮をひき剥かれた豚と牛の頭が眠った支那人の首のように転んでいた。職工達は狭い机の前にずらりと連んで黙っていた。だが、盛り飯の廻りが遅れると彼らは箸で茶碗を叩き出した。湯気が満ちると、彼らの顔は赤くなって伸縮した。
 牛の頭で腹を満たすと彼は十銭を投げ出してひとり露地裏の自分の家へ帰って来た。彼は他人の家の表の三畳を借りていた。部屋にはトゲの刺さる傾いた柱がある。壁は焼けた竈《かまど》のようで、雨の描いた地図の上に蠅の糞が点々と着いていた。そこで彼は、柱にもたれながら紙屑を足で押し除け、うすぼんやりと自殺の光景を考えるのだ。外では子供達が垣を揺すって動物園の真似をしていた。狭い路を按摩《あんま》が呼びながら歩いて来る。子供達は按摩の後からぞろぞろついてまた按摩の真似をし始める。彼は横に転がって静かになった外を見ると、向いの破れた裏塀の隙きから脹れた乳房が一房見えた。それはいつも定って横わっている青ざめた病人の乳房であった。彼が部屋へ帰って親しめる唯一のものはその不行儀な乳房である。その乳房は肉親のように見えた。彼はその女の顔を一度見たいと願い出した。が、
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