民の病いを植えつけてやるであろう。
ルイザはナポレオンに引き摺《ず》られてよろめいた。二人の争いは、トルコの香料の匂《にお》いを馥郁《ふくいく》と撒《ま》き散らしながら、寝台の方へ近づいて行った。緞帳が閉《し》められた。ペルシャの鹿の模様は暫く緞帳の襞の上で、中から突き上げられる度毎《たびごと》に脹れ上って揺れていた。
「陛下、お気をお鎮めなさりませ。私はジョセフィヌさまへお告げ申すでございましょう」
緞帳の間から逞《たくま》しい一本の手が延びると、床の上にはみ出ていた枕を中へ引き摺り込んだ。
「陛下、今宵は静にお休みなされませ。陛下はお狂いなされたのでございます」
ペルシャの鹿の模様は鎮まった。彫刻の裸像はひとり円柱の傍で光った床の上の自身の姿を見詰めていた。すると、突然、緋《ひ》の緞帳の裾から、桃色のルイザが、吹きつけた花のように転がり出した。裳裾《もすそ》が宙空で花開いた。緞帳は鎮まった。ルイザは引き裂かれた寝衣《ねまき》の切れ口から露《あら》わな肩を出して倒れていた。彼女は暫く床の上から起き上ろうとしなかった。掻き乱された彼女の金髪は、波打ったまま大理石の床の上へ投げ出された。
彼女は漸《ようや》く起き上ると、青ざめた頬《ほお》を涙で濡《ぬ》らしながら歩き出した。彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱《ゆううつ》に繰り出されて曳《ひ》かれていった。
ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿った旗のように明方まで動かなかった。
五
その翌日、ナポレオンは何者の反対をも切り抜けて露西亜《ロシア》遠征の決行を発表した。この現象は、丁度彼がその前夜、彼自身の平民の腹の田虫をハプスブルグの娘に見せた失敗を、再び一時も早く取り返そうとしているかのように敏活であった。殊に彼はルイザを娶《めと》ってから彼に皇帝の重きを与えた彼の最も得意とする外征の手腕を、まだ一度も彼女に見せたことがなかった。
ナポレオン・ボナパルトのこの大遠征の規模作戦の雄大さは、彼の全生涯を通じて最も荘厳華麗を極《きわ》めていた。彼は国内の三十万の青年に動員令に対する準備を命じた。更に健全な国内の壮丁九十万人を国境と沿海戦の守備に充《あ》てた。なおその上に、彼はフランス本国から二十万人を、ライン同盟国から十四万七千人、伊太利から八万人を、波蘭《ポーランド》とプロシャとオーストリアから十一万人、これに仏領各地から出さしめた軍隊を合せて七十万人に、加うるに予備隊を合して総数百十万余人の軍勢をドレスデンへ集中させた。そうして、ナポレオンは彼の娘のごとき皇后ルイザを連れてパリーからドレスデンまで出て行った。ドレスデンではルイザの父オーストリア皇帝、プロシャ皇帝、同盟国の最高君主が一団となって、百十万余人の軍隊と共に彼ら二人の到着を出迎えた。
この古今|未曾有《みぞう》の荘厳な大歓迎は、それは丁度、コルシカの平民ナポレオン・ボナパルトの腹の田虫を見た一少女、ハプスブルグの娘、ルイザのその両眼を眩惑《げんわく》せしめんとしている必死の戯れのようであった。
こうして、ナポレオンは彼の大軍を、いよいよフリードランドの大原野の中へ進軍させた。
六
ナポレオンの腹の上では、今や田虫の版図は径六寸を越して拡っていた。その圭角《けいかく》をなくした円《まろ》やかな地図の輪郭は、長閑《のどか》な雲のように微妙な線を張って歪《ゆが》んでいた。侵略された内部の皮膚は乾燥した白い細粉を全面に漲《みなぎ》らせ、荒された茫々《ぼうぼう》たる沙漠《さばく》のような色の中で、僅《わず》かに貧しい細毛が所どころ昔の激烈な争いを物語りながら枯れかかって生《は》えていた。だが、その版図の前線一円に渡っては数千万の田虫の列が紫色の塹壕《ざんごう》を築いていた。塹壕の中には膿《うみ》を浮かべた分泌物《ぶんぴつぶつ》が溜《たま》っていた。そこで田虫の群団は、鞭毛《べんもう》を振りながら、雑然と縦横に重なり合い、各々横に分裂しつつ二倍の群団となって、脂《あぶら》の漲《みなぎ》った細毛の森林の中を食い破っていった。
フリードランドの平原では、朝日が昇ると、ナポレオンの主力の大軍がニエメン河を横断してロシアの陣営へ向っていった。しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽《ことごと》く彼らの過去に殺戮《さつりく》した血色のために気が狂っていた。
ナポレオンは河岸の丘の上からそれらの軍兵を眺《なが》めていた。騎兵と歩兵と砲兵と、服色|燦爛《さんらん》たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と進軍した。砲車の轍《わだち》の連続は響を立てた河原のようであった。朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛《くりげ》の馬の平
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