ことは別に何の不思議もないやうに思はれ出した。それに被告が無智であればあるほど富貴な蕩児に反感を持つたにちがひないとの前の自分の推断は、論理に於て一見正しさうではあるが、その実、それは逆に無智であればあるほど相手の富貴が直接に影響を被告に与へてゐない限り、なほそれだけ相手に反感を持ち得なさうに思へば思ふことが出来て来た。無論被告と酔漢とが争つた以上、そこに何かの反感のあつたことは疑へない事実ではあつた。だがそれとて、自分が被告に向けてゐた敵のやうな反感とはちがつて、被告の反感はただ自由な蕩児を羨むありふれたものであつたにちがひないと思はれ出すと、今迄自分にしつこくつき纏つてゐた被告に対する疑ひも、故意に酔漢を突き飛ばしてまで殺すにいたる種類の反感であつたとは、どうしても思はれなくなつて来た。すると、ただ勝手に自分が被告を危険思想を抱いてゐる者として、ただ勝手に被告を敵の立場に置いてかかつた自分の恐怖心が判事には急に馬鹿らしく羞しくなつて来た。それに判事は自分のために悲しみを投げつけられたそのときの被告のいかにも悲しさうな顔つきを思ひ出した。これは判事の気持ちを被告の孤独な気持ちの中へ全
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