仰言《おつしや》つては困りますよ。私は決してそんな考へは起しません。」
「何ぜ困るのか。」
「そんなことを仰言つては困りますよ。」
「お前に都合が悪いのか。」
「都合が悪いと云ふわけではございませんが、そんな考へなぞ起したことはございません。」
「お前はお前の都合のよいときばかり、はいはいと云つてゐたのか。」
被告は何か云ひたさうに口を動かしたが黙つてゐた。ただ小鼻がひとりぴこぴこ動いてゐた。すると、彼の顔は眼の縁を残して少し青味を帯んで来た。
「お前はあの酔漢を金持ちと見たとき、敵のやうに思つたのであらう。」
「はい。」
「事件の当夜、お前は列車の来たのを見はからつてその酔漢を突き飛ばしたのであらう。」
「はい。」
被告は窓の外を見たまま傲然としてゐた。
「さうであらう。」
被告は黙つてゐた。
「どうだ。」
「もうどうなりとして下さい。」と被告は強く云ひ放つた。
判事は被告の怒つた顔を見てゐると、事実事件の当夜の被告の行為が自分の疑ひと一致してゐるとすれば、まさか今の場合さうむきに怒ることが出来なからうと思はれて、今迄感じてゐた自分の疑ひもいくらかとけた。しかし、被告の怒りも
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