物行状の巨細《こさい》を知るにはかれの生活記録たる日記がある。この日記はイツ頃から附け初めイツ頃で終わってるか知らぬが、今残ってるのは晩年の分である。あの筆豆から推せば若い時から附けていたに違いないが、先年馬琴の家からひと纏めに某氏の手へ渡った自筆文書の中には若い時の日記はない。この分は今、全部早稲田大学図書館に移管されている。震災に亡びた帝大図書館のは、ドコから買い入れたか出所来歴を知らぬがそれより以前に滝沢家から出たものらしい。マダそのほかにも散逸したものがドコかに残ってると思うが、所在を明らかにしない。帝大のは偶然館外に貸出してあった一冊が震火を免かれて今残っている。この一冊と早大図書館所蔵本とが今残ってる馬琴日記の全部である。この早稲田本を早大に移る以前に抄録解説したのが饗庭篁村《あえばこうそん》氏の『馬琴日記抄』であって、天保二年の分を全冊転印されたのが和田万吉氏の『馬琴日記』(原本焼失)である。
 饗庭氏の抄録本もしくは和田氏の校訂本によって馬琴の日記を読んだものは、誰でもその記載の事項が細大洩らさず綿密に認《したた》められたのを驚嘆せずにはいられない。毎日の天候気温、出入客来、他出等、尋常日記に載すべき事項のほかに、祭事、仏事、音物《いんぶつ》、到来品、買物、近親交友間の消息、来客の用談世間咄、出入商人職人等の近事、奉公人の移り換、給金の前渡しや貸越や、慶庵や請人《うけにん》の不埒《ふらち》、鼠が天井で騒ぐ困り咄、隣りの猫に※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《さかな》を取られた不平咄、毎日の出来事を些細の問題まで洗いざらい落なく書き上げておる。殊に原本は十五、六行の蠅頭《ようとう》細字で認めた一年一冊およそ百余|張《ちょう》の半紙本である。アレだけの著述をした上にこれだけの丹念な日記を毎日怠らず附けた気根の強さ加減は驚くに余りある。日記その物が馬琴の精力絶倫を語っておる。
 更にその内容を検すると、馬琴が日常の極めて些細な問題にまで、いちいち重箱の隅をホジクルような小理窟を列べてこだわる気難《きむず》かし屋であるに驚く。それもいいが、いつまでもサッパリしないでネチネチと際限なくごてる[#「ごてる」に傍点]。ただ読んでさえ七《しち》むずかしいのに弱らせられるんだから、あの気難かし屋に捉まったら災難だ、頭からガミガミと叱られるなら我慢し易いが、ネチネチとトロ火で油煎《あぶらいり》されるように痛めつけられたら精も根も竭《つ》きて節々《ふしぶし》までグタグタになってしまうと、恐れを成さずにはいられまい。馬琴がアレだけの学問技能を抱いて、アレだけの大仕事をして、アレだけの愛読者、崇拝者を持ちながら近づくものが少なくて孤立したのはあの気難かし屋からである。馬琴の剛愎高慢は名代《なだい》のもので、同時代のものは皆人もなげなる態度に腹を立ったものだそうだが、剛愎高慢は威張らして置けば済むからかえって御《ぎょ》し易《やす》いが、些細な問題にいちいち角を立ててその上にイツマデも根に葉に持っていられたり、あるいは意地悪婆さんの嫁いびりのように、ネチネチ、チクチクとやられてはとても助からない。和田君の校訂本を読んだものは誰も直ぐ気が付くが、馬琴の家の下婢の出代りの頻繁なのは殆んど応接に遑《いとま》あらずだ。その度毎に給金の前渡しや貸越が必ず附帯する。それんばかしの金をくれてしまったらと思うが、馬琴は寸毫も仮借しない。いちいち請人を呼びつけて厳重に談じつける。鄙吝《ひりん》でもあったろうが、鄙吝よりは下女風情に甘く嘗《な》められてはという難《むず》かし屋の理窟屋の腹の虫が承知しないのだ。一体馬琴の女房のお百というがなかなかの難物らしかったが、その上に主翁の馬琴が偏屈人の小言幸兵衛《こごとこうべえ》と来ては女中の尻の据わらなかったのも無理はない。馬琴の家庭は日記の上では一年中低気圧に脅かされ通しで、春風|駘蕩《たいとう》というような長閑《のどか》なユックリとした日は一日もなかったようだ。老妻お百と※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》のお道との三角葛藤はしばしば問題となるが、馬琴に後暗い弱点がなくとも一家の主人が些細な家事にまでアア七《しち》むずかしい理窟をこねるようでは家が悶《も》める。馬琴はただに他人ばかりでなく家族にさえも余り喜ばれなかった苛細冷酷な偏屈者であった。
 一言すれば理窟ばかりで、面白味も温味《あたたかみ》もない冷たい重苦しい感じのする人物だった。世辞も愛嬌もないブッキラ棒な無愛想な男だった。崇拝者も相応に多くて、遥々遠方から会いに来る人もあったが、木で鼻を括《くく》ったような態度で面白くもない講釈を聞かされ、まかり間違えば叱言《こごと》を喰ったり揚足を取られたりするから一度で懲り懲りしてしまう。アレだけ綿
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