|管領《かんれい》との大戦争に及ばなかったらやはりただの浮浪物語であって馬琴の小説観からは恐らく有終の美を成さざる憾《うら》みがあろう。そういう道学的小説観は今日ではもはや問題にならないが、為永春水|輩《はい》でさえが貞操や家庭の団欒《だんらん》の教師を保護色とした時代に、馬琴ともあるものがただの浮浪生活を描いたのでは少なくも愛読者たる士君子に対して申訳が立たないから、勲功記を加えて以て完璧たらしめたのであろう。が、『八犬伝』の興趣は穂北《ほきた》の四犬士の邂逅《かいこう》、船虫《ふなむし》の牛裂《うしざき》、五十子《いさらこ》の焼打で最頂に達しているので、八犬具足で終わってるのは馬琴といえどもこれを知らざるはずはない。畢竟するに馬琴が頻りに『水滸』の聖嘆評を難詰|屡々《しばしば》するは『水滸』を借りて自ら弁明するのではあるまいか。
だが、この両管領との合戦記は、馬琴が失明後の口授作にもせよ、『水滸伝』や『三国志』や『戦国策』を襲踏した痕が余りに歴々として『八犬伝』中最も拙陋《せつろう》を極めている。一体馬琴は史筆|椽大《てんだい》を以て称されているが、やはり大まかな荒っぽい軍記物よりは情緒細やかな人情物に長じておる。線の太い歴史物よりは『南柯夢《なんかのゆめ》』や『旬殿実々記《しゅんでんじつじつき》』のような心中物に細かい繊巧な技術を示しておる。『八犬伝』でも浜路《はまじ》や雛衣《ひなきぬ》の口説《くどき》が称讃されてるのは強《あなが》ち文章のためばかりではない。が、戦記となるとまるで成っていない。ヘタな修羅場読《しゅらばよみ》と同様ただ道具立を列《なら》べるのみである。葛西金町《かさいかなまち》を中心としての野戦の如き、彼我の五、六の大将が頻りに一騎打の勇戦をしているが、上杉・長尾・千葉・滸我らを合すればかなりな兵数になる軍勢は一体何をしていたのか、喊《とき》の声さえ挙げていないようだ。その頃はモウかなり戦術が開けて来たのだが、大将株が各自《てんで》に自由行動を取っていて軍隊なぞは有るのか無いのか解らない。これに対抗する里見勢もまた相当の数だろうが、ドダイ安房《あわ》から墨田河原《すみだがわら》近くの戦線までかなりな道程をいつドウいう風に引牽《いんけん》して来たのやらそれからして一行も書いてない。水軍の策戦は『三国志』の赤壁をソックリそのままに踏襲したので、里見の天海《てんかい》たる丶大《ちゆだい》や防禦使の大角《だいかく》まで引っ張り出して幕下でも勤まる端役を振り当てた下《した》ごしらえは大掛りだが、肝腎の合戦は音音《おとね》が仁田山晋六《にたやましんろく》の船を燔《や》いたのが一番壮烈で、数千の兵船を焼いたというが児供《こども》の水鉄砲くらいの感じしか与えない。扇谷家第一の猛者|小幡東良《おばたはるよし》が能登守教経《のとのかみのりつね》然たる働きをするほかは、里見勢も上杉勢も根ッから動いていない。定正がアッチへ逃げたりコッチへ逃げたりするのも曹操《そうそう》が周瑜《しゅうゆ》に追われては孔明《こうめい》の智なきを笑うたびに伏兵が起る如き巧妙な作才が無い。軍記物語の作者としての馬琴は到底『三国志』の著者の沓《くつ》の紐《ひも》を解くの力もない。とはいうものの『八犬伝』の舞台をして規模雄大の感あらしめるのはこの両管領との合戦記であるから、最後の幕を飾る場面としてまんざら無用でないかも知れない。
が、『八犬伝』は、前にもいう通り第八輯で最高頂に達し、第九輯巻二十一の百三十一回の八犬具足で終わっている。それより以下は八犬後談で、切り離すべきである。(私の梗概がその以下に及ばないのはこの理由からである。)『八犬伝』の本道は大塚から市川《いちかわ》・行徳《ぎょうとこ》[#ルビの「ぎょうとこ」はママ]・荒芽山《あらめやま》と迂廻して穂北《ほきた》へ達する一線である。その中心点が大塚と行徳と荒芽山である。野州路《やしゅうじ》や越後路《えちごじ》はその裏道で甲斐《かい》の石和《いさわ》や武蔵《むさし》の石浜《いしはま》は横路である。富山や京都は全く別系統であって、富山が八犬の発祥地であるほかには本筋には何の連鎖もない。地理的にいえば、大塚と行徳と荒芽との三地点から縄を引っ張った三角帯が『八犬伝』の本舞台であって、この本舞台に登場しない犬江(親兵衛は行徳に顔を出すがマダ子役であって一人前になっていない)・犬村・犬阪の三犬士は役割からはむしろスケ役である。なかんずく、その中心となるのは信乃と道節とで、『八犬伝』中最も興味の深い主要の役目を勤めるのは常にこの二人である。
一体八犬士は余り完全過ぎる。『水滸伝』中には、鶏を盗むを得意とする時遷《じせん》のような雑輩を除いても黒旋風《こくせんぷう》のような怒って乱暴するほかには取柄《とりえ
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