その博覧強記が決して俄仕込《にわかじこみ》にあらざるを証して余りがある。
 かつ『八犬伝』の脚色は頗る複雑して事件の経緯は入り組んでいる。加うるに人物がそれぞれの歴史や因縁で結ばれてるので、興味に駆られてウカウカ読んでる時はほぼ輪廓を掴《つか》んでるように思うが、細かに脈絡を尋ねる時は筋道が交錯していて彼我の関係を容易に弁識し難い個処がある。総じて複雑した脚色は当の作者自身といえども往々混錯して往々迷路に彷徨するは、あたかも自分の作ったラビリンスに入って出口を忘れるようなものだ。一度死んだ人間を無理に蘇生《いきかえ》らしたり、マダ生きてるはずの人間がイツの間にかドコかへ消えてしまったり、一つ人間の性格が何遍も変るのはありがちで、そうしなければ纏まりが附かなくなるからだ。正直に平たく白状さしたなら自分の作った脚色を餅に搗《つ》いた経験の無い作者は殆んどなかろう。長篇小説の多くが尻切蜻蜒《しりきれとんぼ》である原因の過半はこれである。二十八年の長きにわたって当初の立案通りの過程を追って脚色の上に少しも矛盾撞着を生ぜしめなかったのは稀に見る例で、作者の頭脳の明澄透徹を証拠立てる。殊に視力を失って単なる記憶に頼るほかなくなってからでも毫も混錯しないで、一々個々の筋道を分けておのおの結末を着けたのは、例えば名将の隊伍を整えて軍を収むるが如くである。第九輯巻四十九以下は全篇の結末を着けるためであるから勢いダレる気味があって往々閑却されるが、例えば信乃が故主成氏《こしゅうしげうじ》の俘《とら》われを釈《と》かれて国へ帰るを送っていよいよ明日は別れるという前夕、故主に謁《えつ》して折からのそぼ降る雨の徒々《つれづれ》を慰めつつ改めて宝剣を献じて亡父の志を果す一条の如き、大塚匠作《おおつかしょうさく》父子の孤忠および芳流閣の終曲として余情|嫋々《じょうじょう》たる限りなき詩趣がある。また例えば金光寺門前の狐竜の化石(第九輯巻五十一)延命院の牡丹の弁(同五十二)の如き、馬琴の得意の涅覓論であるが、馬琴としては因縁因果の解決を与えたのである。馬琴の人生観や宇宙観の批評は別問題として、『八犬伝』は馬琴の哲学諸相を綜合具象した馬琴|宗《しゅう》の根本経典である。

       三 『八犬伝』総括評

 だが、有体《ありてい》に平たくいうと、初めから二十八年と予定して稿を起したのではない。読
前へ 次へ
全28ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内田 魯庵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング