を憂いざるべし。論者なおあるいはいわん、そのように助力を与うる多くの友人あるを望みうべきかと。小生の考うるところによれば、婦人はことごとく多くの子供を産む者にあらず。ある者はわずかに一、二人を産み、ある者は全くこれを産まず。ゆえにそれらの婦人がその余力をもって他の多産婦人を助くるは、当然にしてまた自然の人情なるべし。ただ今日においては、人みな自己の生活に忙わしく、他を顧みるのいとまなしといえども、進歩せる将来の社会において、人みな生活の余裕を生じ、人と人と競争し、家と家と相隔つるの陋態《ろうたい》を脱するをえば、自然の人情はここに油然としてわき起こり、余力多き婦人は必ず走って多産婦人を助くべきは想像に難からざるべし。また男子の側より見れば、生殖の大事業を婦人に分担せしめたることとて、生活事業の余力をもってなるべく多く婦人を助け、その労苦を最少の度に減ぜしむべきはもちろんなり。

    四

 これを要するに、婦人の特殊なる天職はただ妊娠、分娩、哺乳の一事にあり。しかもそは決して婦人生涯の全力を要求するものにあらず。婦人はこの特殊なる天職の外に、男子と相並んで一般人間の天職を果たさざるべからず。ただし小生といえども、全く男女性情の差異を認めざるにあらず。婦人がその生殖作用の分業より来たる必然の結果として、生理上ある点において男子と異なる傾向を生ずるは、否むべからざる事実なるがごとし。小生は今日の男女間に見るがごとき性情の大差異は、社会の制度習慣より来たれる一時の現象なりと信ずれども、別に男女性の根本において多少の差別あるべきは、またこれを認めざるをえざるものあり。ゆえに男子が生活事業を分担し、婦人が生殖事業を分担し、それ以上にもって男女共に他の高尚なる諸事業に当たるの時、女子がその自然の性情に基づきて、あるいは多く美術におもむき、あるいは多く音楽に向かうというがごとき、男子に対して趣味ある差別を現ずべきは、小生の常に想像するところなり。さればこの点において、婦人の天職は美術にあり、婦人の天職は音楽にありなどとも称するをえんか。ただしそは将来の自由社会における自然の発展に見て、しかして後初めて言うべきの事にして、今日軽々にこれを予想し、断言すべからず。ことに男子が、その男子的偏見(よし自らはその偏見たることを意識せざるにもせよ)をもって、憶断に婦人の天職を云々するがごときは、実に許すべからざるの大罪なりと信ず。福田女史もっていかんとなす。
[#地付き](明治四〇・一・一、第一号)



底本:「堺利彦全集 第三巻」法律文化社
   1970(昭和45)年9月30日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:染川隆俊
2002年10月7日作成
2005年12月13日修正
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