し私に、けちくさい、気の小さい、小事にアクセクするというところが著しく現われているとするなら、それは父の方からの欠点である。もしまた私に、不器用な、不活溌な、優柔不断なところが大いに存在しているとするならば、それは母の方からの弱点である。
 母の家には昔大きな蜜柑の木があったが、その蜜柑が熟する頃になると、母の父(即ち私の祖父)は、近処の子供を大ぜい集めて、自分は蜜柑の木の上に登って、そこから蜜柑をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、そして子供が喜ぶのを見て面白がっていた。私はそんな話を、花咲爺の昔話と同じように聞いていたのだが、またどこやらにただの昔話とは違って、自分の祖父にそんな面白い人があったという誇りを感ずる点があったように思う。
 父方の祖父については、私は何の知るところもない。思うにそれは、祖父が早く死んだので、幾許《いくばく》も父の記憶に残っていなかったためだろう。父方の祖母はかなりシッカリした婦人であったらしい。早く夫に別れて、年の行かぬ二人の子供を守《も》り立てて行ったのは、容易なことでなかったろう。その頃、江戸に行っていた私の父に対して、国元の祖母から送った手紙が一通、私の手に残っているが、その筆跡もなかなか達者だし、文句もずいぶんシッカリしている。また、祖母の妹(私の父の叔母《おば》、私の大叔母)は、私もよく知っていたが、これがなかなかただの女でなかった。変屈者《へんくつもの》、やかまし屋として、あちこちで邪魔にされた場合もあったようだが、私から見ると、ずいぶん面白いところのある、よいおばさんであった。この人が大阪から私の父によこした手紙が残っているが、「黄粉が食いとうても臼がのうてひけぬ、今度来るなら臼を持って来ておくれ、うんちんはおれが出す」と言った調子である。明治二十二年に、八十に近いお婆さんが、大胆な言文一致体で手紙を書いていたのである。これらのことも、私に取っては確かに多少の誇りであった。



底本:「日本の名随筆42 母」作品社
   1986(昭和61)年4月25日第1刷発行
   1988(昭和63)年1月20日第5刷発行
底本の親本:「堺利彦伝」中公文庫、中央公論社
   1978(昭和53)年4月
入力:もりみつじゅんじ
校正:菅野朋子
2000年6月1日公開
2005年6月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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